第89節『旅立ちの準備』
第89節『旅立ちの準備』
拝命の翌日、井伊谷は朝から落ち着かぬざわめきに包まれていた。
昨日の評定で一つになった家中の熱気は冷めることなく、むしろ井伊家の未来を切り拓くという一つの目的に向かって、具体的な行動となって現れていたのだ。
普段は山里らしい静けさに満ちる領内だが、この日ばかりは違った。
人々は走り回り、声を掛け合い、馬の嘶きや鍛冶場の槌音までもが一つの大きな律動となって響いていた。
すべては――井伊家の全権大使、源次の旅立ちのために。
源次は城下を歩きながら、その光景に足を止める。
干飯を干す女たち、荷を括る男たち。一人ひとりの所作が小さくとも、それらが重なり合い、確かな熱となって彼に押し寄せてきた。
(……俺のために、これほどまでに)
胸の奥が熱を帯びる。同時に、その熱が責任の重さとなってのしかかるのを、源次はひしひしと感じた。
「源次、こちらへ」
低く通る声に振り向けば、中野直之が手を振っていた。昨日までの険しさは消え、そこには清冽な決意を刻んだ表情があった。
直之は小さな巻物を広げ、卓上に置く。
「徳川の家臣団は一癖も二癖もある連中だ。まずは酒井忠次――老獪にして人情家。こちらが誠を示せば応えてくるだろう。石川数正は理屈を好む。言葉を誤れば、すぐに矛先を変える。奥平や本多の連中もまた、それぞれ色が濃い」
源次は息を呑んで聞き入った。直之の口調は叱責ではなく、未来を託す同志のそれだった。
「決して侮るな。だが彼らも三河武士だ。信義には信義で応える男たちだ」
源次は真剣に頷いた。
そこへ重吉が現れる。
分厚い紙を抱え、無骨な手で机に広げると、手書きの道筋に赤い印がいくつもつけられていた。
「見よ。この峠は夜に越えるな。山賊が巣を張っておる。この川は橋が脆い。雨が降れば渡るな。ここは宿場の飯が悪いが、主は信用できる男じゃ。困ったときは頼れ」
指は迷わず、老兵の声は重みを帯びていた。何度も死地をくぐり抜けた者だけが語れる実戦の知恵。
「この道筋を忘れるな。命が惜しければ、だ」
源次は頭を下げた。
馬屋からは若武者たちが駆け込んでくる。
「この駿馬なら三河まで一息に駆けられる」「いや、持久力ならこちらが勝る」
互いに譲らず議論を重ねた末、最良の一頭を選び抜いた。その中から、特に腕利きとして知られる二人が進み出た。彼らこそ、直虎様から直々に源次の供を命じられた若武者たちであった。
「殿、道中の護衛は我らにお任せください!」
毛並みは陽光に輝き、瞳は聡明に澄んでいた。
女中たちは干飯を細かく砕き、兵糧丸を丸め、梅干しを竹の皮で包んでいく。
その指先は、ただの仕事ではなく祈りを編むように動いていた。「これなら何日も持ちます。どうかご無事で」
源次は言葉を失い、ただ深く頭を下げた。
その夜。
準備の喧騒が収まり、源次が荷を整えていると、戸口から直之が現れた。彼は一振りの脇差を手にしていた。
「……これは、俺が若き日に使っていたものだ。お守り代わりに持っていけ」
源次は目を見開いた。それは彼が完全に井伊家の武士として認められた証だった。
「中野殿……」「言葉はいらん。持っていけ」
短く告げると、直之は背を向け去っていった。その背には、もはや険しさではなく仲間としての温かさがあった。
間もなく重吉が訪れる。
胡坐をかき、煙草をふかしながら静かに言った。
「これだけは覚えておけ。交渉で一番大事なのは、引くべき時を知ることだ。全てを得ようとするな。一番大事なものを、一つだけ掴んで帰ってこい」
老兵の言葉は剣より鋭く胸に刺さる。源次は深く頷いた。「はい……必ず」
その後、昨日まで源次を罵っていたはずの古参の家臣までもが姿を現し、小さな包みを差し出した。
「源次殿、これを路銀の足しにされよ」
それはなけなしの銭であった。源次は胸が詰まり、声が出なかった。
夜更け。
一人きりになった源次は、広げられた荷を前に座した。
中野の脇差。重吉の地図。若武者の選んだ馬。女中の兵糧。古参が差し出した銭。
その一つ一つに、井伊谷の人々の想いが込められている。
「……俺は、これだけの想いを背負って行くのか」
心に浮かぶのは、恐怖ではなかった。温かくも、背筋を伸ばせずにはいられぬ責任感。
彼は丁寧に一つずつ荷に収めた。その手つきは祈りを捧げるかのようであった。
明日の出立を前に、源次の心は静かに、しかし燃えるように熱く満たされていた。
井伊谷の総意を背に、彼は明日、岡崎への道へと踏み出すのだ。
――その夜、源次は悟った。彼は、もはや一人の旅人ではない。
井伊家すべての者を背負う「全権大使」として歩むのだ、と。