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第88節『拝命』

第88節『拝命』

 静寂が戻っていた。

 先ほどまで評定の間には激しい言葉が飛び交い、緊張と敵意が渦巻いていた。だが、中野直之が源次に頭を垂れ、固く手を握り合った瞬間、すべての隔たりは溶かし去られたのだ。

 今、広間に漂うのはただ一つ――「井伊家」という名の、一枚岩の気配であった。

 源次は深く息を吐いた。その胸に宿るのは安堵ではなく、もはや避けられぬ重責の実感である。

 彼の目の前には、ただ一つの道が開かれていた。


 中野直之は源次の隣に静かに腰を下ろした。かつては彼を最も激しく罵り、刃を交える覚悟さえした相手。だが今、その心には敵意は微塵もない。

 (……この若者に託すのだ。これからの井伊を)

 彼は不思議な安堵に包まれていた。己の手を離れていく未来を、悔いではなく希望として見守れる。それは長く戦場に身を置いた男にとって、思いがけぬ境地だった。


 その時。

 「源次」

 清冽な声が、間を裂くように響いた。

 皆の視線が一斉に上座へ向く。井伊直虎は、濡れたままの目元を袖で拭い去り、再び当主としての威儀を纏っていた。

 「前へ」

 その一言に、広間の空気が張り詰める。

 源次は立ち上がった。家臣たちの間に伸びる通路を、ただ一人進み出る。

 その足取りは重く、しかし揺らぎはなかった。列に並ぶ者たちは誰一人、視線を逸らさぬ。敬意と期待を宿した眼差しが、源次の背を押していた。

 やて彼は直虎の御前に跪いた。広間の空気がさらに凛と引き締まる。


 直虎は脇に控えさせていた文箱を開け、一巻の巻物を取り出した。紅の紐で固く結ばれた国書である。

 それは井伊家の総意を記し、彼が徳川に赴く際の権威を保証する唯一の証。

 直虎は両手でそれを恭しく掲げ、源次の前に差し出した。

 「これに、我らが井伊家の誠をしたためた。そなたはこれを携え、徳川殿の御前に参り、我らの心を伝えよ」

 声は澄み、そして温かい。母が子を送り出すような柔らかさを秘めながらも、一族を束ねる当主としての厳しさが宿っていた。

 「聞け、源次。そして皆の者も。我らは今、三つの獣に囲まれておる。北には、すべてを呑み込もうとする猛虎・武田。東には、かつての栄光にすがりつく老いたる獅子・今川。そして西には、まだ若いが故に底知れぬ野心を持つ狼・徳川」

 彼女の言葉に、家臣たちは息を呑む。

 「我らは、その狼の群れに身を投じることを決めた。それはただの同盟の申し入れではない。井伊が、未来を生き抜くための、最初の産声じゃ。決して臆することなかれ。そなたの背には、我ら井伊すべての者が共にあることを、ゆめ忘れるな」

 (うおおお…! 推しの演説、かっこよすぎる…! 覇王の器だよ! この人のためなら死ねる…いや、死なない! 生きてこの大役を果たして、最高の形で推しに貢献してみせる!)

 その言葉に、広間に集う者たちが一斉に深く頷いた。それは命令ではなく、祈りであり、誓いであった。


 源次は両手で恭しく巻物を受け取った。

 掌に伝わる重みは、ただの紙のそれではない。井伊谷すべての命、すべての想いが、この国書に託されているのだ。

 (推しのために、ここまで来た。だが今は、それだけじゃない。みんなのために。この家のために)

 彼は立ち上がり、広間を見渡した。中野直之をはじめ、全ての家臣たちの眼差しが、揺らぎない信頼を注いでいる。

 源次は深く、深く頭を垂れた。これまでの人生で最も長く、最も重い礼である。

 「――御意。この源次、身命を賭して、必ずや大役を果たしてまいります」

 その声は朗々と響き、梁を震わせるかのようであった。

 刹那、家臣たちが一斉に膝を折り、頭を垂れた。そこには派閥の影も、疑念の色もない。

 皆が一つとなり、この若き使者を送り出す覚悟を示していた。

 中野直之はその光景を見つめ、胸の奥から熱が込み上げるのを抑えられなかった。

 (ああ……これだ。これこそが、井伊の未来だ)

 彼の目は誇りに輝いていた。

 漁師上がりの一介の足軽にすぎなかった源次は、この瞬間、名実ともに井伊家の未来を託された全権大使となった。

 荘厳な静寂が広間を満たす。その光景は、井伊家が最高の形で次の時代へ踏み出すことを告げていた。

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