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第87節『評定での推薦』

第87節『評定での推薦』

 数日後、再び評定の間が設けられた。

 秋の朝の冷気が、広間に張りつめている。障子の隙間から射す光は白く硬く、誰一人として声を発せず、息遣いさえも抑えている。

 表向きは、先日名乗りを上げた老臣と若武者を使者として正式に任命するための場。だが、その裏で真の議題が動いていることを知るのは、直虎と源次、そして中野直之の三人だけであった。


 上座に座す井伊直虎は、凛とした面持ちを崩さぬまま、左右に並ぶ家臣たちの視線を受け止めていた。

 しかし、家臣たちが真に注目しているのは、直虎その人ではなかった。

 直虎の隣に控える一人の武将――中野直之。

 直之は膝を正し、無言で座している。その額に浮かぶ深い皺、鋭い眼光。

 家臣たちは皆、彼の一挙一動を凝視していた。もし彼が反対の声を上げれば、この評定は再び乱れる。それを誰もが恐れ、固唾をのんでいた。


 源次は末席に座していた。

 姿勢を正しつつも、瞼を伏せている。中野を信じたい気持ちと、それでもまだ拭いきれぬ不安。胸の内では、重苦しい鼓動が絶え間なく響いていた。

 (……あの夜、あの人は俺に誓ってくれた。だが……本当に、この場で……?)


 その時。

 直虎が口を開こうとした。「――では、使者を……」

 その言葉を、低く落ち着いた声が遮った。

 「お待ちくだされ」

 中野直之であった。

 静かなその一言が、雷鳴の如く広間を震わせる。家臣たちは息を呑み、互いに顔を見合わせる。

 直之はゆっくりと立ち上がった。

 堂々とした体軀が、障子の光を背に受け、威圧のごとき影を畳に落とす。

 彼はしばし、沈黙を保った。視線を左右に巡らせ、井伊家の家臣一人ひとりの顔を確かめるように見据える。

 そして、低く、しかし響き渡る声で語り始めた。

 「……これまで、俺は己の誇りに固執し、井伊家の進むべき道を見誤っていた」

 ざわり、と空気が揺れる。家臣たちの顔に驚愕が走った。

 直之――家中随一の武断派の重臣が、自らの過ちを口にするなど、誰一人として予想していなかったのだ。

 「直虎様の御心を曇らせ、家中を乱したその不明……ここに詫びる」

 直之は深々と頭を下げた。その動作は重く、畳がきしむほどであった。

 広間は水を打ったように静まり返った。誰もが言葉を失っていた。


 やがて直之は顔を上げた。鋭い眼光が、末席の源次をまっすぐに射抜く。

 「そして……俺は、もう一人、見誤っていた男がいる」

 その言葉に、源次の心臓が大きく跳ねた。

 直之は声を高め、力強く言い放つ。

 「徳川への使者! この大役を果たせる者は、井伊家広しといえど、ただ一人! 源次殿をおいて他にはおらぬ!」

 広間がどよめいた。

 爆ぜるような衝撃が走り、家臣たちの目が一斉に源次へと向けられる。その視線は驚愕と困惑に満ち、信じられぬものを見たかのようであった。

 源次は思わず息を呑んだ。(……中野様……! ここまで……!)

 だが、すぐに反対の声が上がった。

 「な、中野殿! 気は確かか!」「その男は、出自も浅い! 使者の器ではない!」

 古参の家臣たちが立ち上がり、声を荒げる。だが直之は一歩も退かぬ。

 「黙れ!」

 その咆哮は雷鳴のごとく響き、反対の声をかき消した。

 直之はそのまま源次の前へ進み出る。そして、畳に両手をつき、頭を深々と下げた。

 「源次殿! これまでの非礼、幾重にも詫びる! そして、頼む! この井伊家を、我らの未来を、救ってくれ!」

 畳に額がぶつかる音が、広間に響く。

 ――中野直之が、源次に土下座をしていた。

 その衝撃的な光景に、広間は水を打ったように静まり返る。

 最初に我に返ったのは、かつて使者に名乗りを上げた老臣だった。彼はゆっくりと立ち上がると、中野の側に寄り添うように膝をついた。

 「……中野殿、お顔を。そして源次殿。中野殿の申される通りじゃ。この大役、老いぼれの忠義だけでは務まらん。井伊の未来は、そなたの双肩にかかっておる」

 続いて、若武者も進み出た。

 「源次殿! 先日の我が未熟な申し出、お許しくだされ。この役目は、あなた様にこそふさわしい!」

 自ら名乗りを上げた二人が、率先して源次を推挙したのだ。


 古参の家臣たちは悟った。これは、中野直之という男が生涯の誇りを賭けて行った、家中統一のための儀式なのだと。自分たちがこれまで源次に抱いてきた不満や疑念は、この男の覚悟の前では、もはや何の意味も持たない。この土下座は、すべての反対意見を封殺するための、最も雄弁な一手だったのだ。

 彼らは口を開きかけたが、その姿を見て、声を失った。これ以上、何を言えようか。


 源次は震える手で直之の肩を掴み、必死にその身を起こさせようとした。

 「中野様……! お顔を……そんなことを、なさらないでください!」

 彼は立ち上がると、老臣と若武者に向き直り、深々と頭を下げた。

 「お二方のお志、この源次、決して忘れません。その忠義の心こそ、井伊の宝。どうか、私が留守の間、この井伊谷をお守りください」

 直之は顔を上げた。その瞳には、誇りと覚悟が宿っていた。

 「源次殿……俺はおぬしを信じる。……いや、俺が信じねば、誰が井伊を信じるのだ!」

 その手を、源次の手が強く握り返す。

 二人の掌が重なった瞬間、広間の空気が大きく変わった。


 井伊直虎は、その光景を見つめていた。その瞳には、涙がうっすらと光っていた。

 (……ついに……ついに、井伊は一つになった……!)

 長く続いた対立は、いまここで完全に氷解した。もはや反対の声は一つもない。

 家中の誰もが、この和解を前にして沈黙し、そして納得していた。

 直虎は静かに頷くと、まず老臣と若武者に向き直った。

 「そなたたちの忠義、決して忘れぬ。その志、井伊の宝じゃ」

 そして、改めて源次を見据えた。

 「――よかろう。徳川への使者、源次。汝に命ずる」

 その声は、井伊家全体の運命を決する宣告であった。

 源次は深く頭を下げる。

 胸の奥に燃え立つ決意と、背に背負う家中すべての思い。

 もはや彼は一人の若武者ではない。

 井伊家そのものを背負う、未来の使者であった。

 そして、この和解と団結の光景は、井伊家の歴史において決して消えることのない「一枚岩誕生の瞬間」として刻まれるのであった。

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