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第86節『和解』

第86節『和解』

 夜の帳が井伊谷を覆い尽くしていた。

 道場を後にした中野直之は、荒い息を吐きながら自室へと戻ってきた。足取りは重く、胸の奥には燃え残った炎のように、源次の言葉がいつまでも消えずに残っている。

 「……泥水をすすれ、か」

 低く呟き、畳にどかりと腰を下ろす。木刀を振り続けて汗で濡れた手のひらは、まだ小刻みに震えていた。彼は膝の上にその拳を置き、深く俯いた。

 あの若造の瞳――まるで真っ直ぐに己の心臓を射抜くかのようであった。虚勢も欺瞞もなく、ただ一人の女主のために命を賭けると語った目。

 「私がこの命を捧げると誓ったのは、直虎様ただ御一人にございます!」

 馬鹿げている。だが、その馬鹿げた言葉ほど、胸を抉ったものはなかった。


 直之は頭を振り、思考を振り払おうとした。だが、振り払えば払うほど、源次の顔が脳裏に焼き付いて離れない。

 やがて彼の心は、過去へとさかのぼっていった。

 ――若き日の記憶。まだ若武者であった頃、直盛に呼ばれたあの日。

 「直之、この井伊谷を頼むぞ」

 その言葉の重みを、今もはっきりと覚えている。「はっ! この命に代えましても!」

 即座に答えた。迷いはなかった。あの日の自分は、ただ忠義に燃えていた。

 それから今日まで、直之の全てはその誓いに支配されてきたのだ。

 しかし――。

 「俺は……誓いに縛られ、かえって井伊を滅ぼすところだったのかもしれぬ」

 胸の奥底で初めて、そんな思いが芽生えた。

 源次の言葉が、彼の凝り固まった忠義の解釈を揺さぶっていた。「誇りを守る」とは、ただ旧来の形に固執し、潔く滅びることではないのではないか。「井伊家を次代へ繋ぐことこそ、真の忠義ではございませぬか」――あの男の問いが、重くのしかかる。

 「先代様……もしあなたが今も生きておられたなら、何と仰せになられたでしょう」

 静かな夜気に問いかけるように呟く。返事はない。ただ、庭の虫の声が響くだけだ。


 ふと脳裏に浮かんだのは、源次の必死の姿だった。

 あの男は、己を愚弄するでもなく、正しさを否定するでもなく、ただ「共に苦しんでくれ」と頭を下げてきた。

 そんなこと、これまで誰もしたことがなかった。

 「……あやつの目は、まやかしではない」

 やがて、障子の隙間から淡い光が差し込んでくる。夜明けであった。

 その光に顔を照らされると、直之の心に一筋の答えが見えてきた。

 彼は、長い夜の末に、初めて深く息を吐いた。そして小さく笑った。

 「そうか……俺は、誓いを守ろうとして、誓いの心を裏切るところであったか」

 井伊を守るとは、ただ刀で戦うことではない。井伊を未来に繋ぐこと――それこそが直盛の想いであり、誇りを守る唯一の道だ。

 直之は立ち上がった。武具を整え、髷を結い直す。その身の動きには、もはや迷いの影はなかった。


 早朝、源次は一人、槍の手入れをしていた。

 昨夜の対話の余韻がまだ心に残り、眠れぬまま夜を明かしていた。

 ふと、背後から足音が響く。

 源次が振り返ると、そこに中野直之が立っていた。静かな気配。しかし、ただ立っているだけで場を圧する威厳がある。

 源次は思わず身を正し、無言で頭を下げた。

 直之は、しばし無言のまま彼を見据えていた。

 やがて――ゆっくりと膝を折り、深々と頭を垂れた。

 「……昨夜は、非礼を詫びる」

 その言葉に、源次の胸が大きく波打った。

 直之は顔を上げ、朝日を背にしたその顔は、まるで生まれ変わったかのように清々しかった。

 「源次殿。おぬしの言う『泥水』、俺にもすすらせてもらおう。……いや、俺が先頭に立って、すすり干してやろう」

 「……!」

 源次は声を失った。

 直之はさらに続ける。

 「徳川への使者、このままあの二人を行かせるわけにはいかぬ。老臣の忠義も、若武者の気概も本物だ。だが、それだけでは徳川家康という男は動かせまい。あの二人では荷が重すぎる」

 その言葉には、冷徹なまでの現実認識があった。

 「あの男と渡り合うには、ただ命を賭ける覚悟だけでは足りぬ。徳川の重臣たちを相手に一歩も引かぬ駆け引きの才、そして何より、家康公という傑物を前にして臆さぬ胆力が要る」

 直之は一息つき、源次を真っ直ぐに見据えた。

 「……その三つを兼ね備えた者は、家中広しといえど、おぬししかおるまい」

 「俺が、家中でそれを認めさせてみせる。反対する者がおれば、この俺が斬る」

 武士の誇りを決して捨てぬまま、それを未来に繋ぐ決意を固めた男の言葉。その覚悟の重みは、誰よりも強かった。

 源次の胸が熱くなる。目の前に立つこの男が、もはや敵ではなく、同じ舟に乗る同志であることを、全身で感じていた。

 直之は大きな手を差し出した。

 源次は震える手でそれを握り返す。

 朝日が、固く握り締められた二人の手を、黄金色に照らし出した。

 和解。井伊家を分裂させていた最大の障壁が、ついに崩れたのだ。

 そして、これから訪れる評定の場で、この絆が大きな意味を持つことになる。

 ――井伊の未来を託すために。

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