第85節『男の対話』
第85節『男の対話』
月明かりが差し込む夜の道場。
木刀を下ろした中野直之と、静かに頭を下げた源次。二人は板間に距離を置いて座した。張り詰めた空気の中、見えざる境界線が、まだ二人を隔てていた。
先に口を開いたのは直之だった。
「直虎様はご決断された。一度下された御意向に、家臣として異を唱えるつもりはない。だが、俺がその決断を心の底から認めたと思うなよ」
その声は、抑えに抑えた怒りで震えていた。
「すべては貴様のせいだ。貴様のような素性の知れぬ漁師上がりが現れ、奇策などと称して直虎様の御心に入り込み、家中をかき乱した!」
直之は畳を拳で叩き、堰を切ったように言葉を続けた。
「佐久間川の一勝で、若者どもは浮かれおって! あれがまことの戦だと思うてか! 泥を啜り、血を流し、槍働きで首級を挙げることこそが武士の誉れであることも忘れ、貴様の口車に乗せられて! 古参の者たちの意見を軽んじ、譜代の家臣を差し置いて、貴様のような男が評定で口を開き、井伊の行く末を左右するなど、あってはならぬことなのだ! 挙げ句の果てに、かつて今川の小者であった徳川に頭を下げろだと? 先代・直盛様が聞かれたら、草葉の陰で涙を流されるわ!」
源次は、その激しい言葉のすべてを、ただ黙って受け止めていた。
直之はさらに畳み掛ける。
「お前とて、徳川が信義なき小者であることは分かっているはずだ! 分かっているなら、なぜ!」
「ですが、中野様」
源次の声は、熱を帯びてはいない。むしろ、氷のように冷徹だった。
「その家康公が、三河を統一し、今や遠江を窺うほどの力を持っている。これもまた、紛れもない事実にございます」
彼は、岡崎で見てきた徳川の国力、家臣団の結束、そして民の暮らしぶりを淡々と、しかし具体的に語り始めた。
「城下の民は笑い、兵はよく鍛えられ、領主に忠を尽くしている。その背後には、尾張の織田信長がいる。これが、我らがこれから相手にせねばならぬ現実です」
直之は黙したまま、だがその眼光は源次を刺していた。
源次は言葉を続ける。
「私は、あなた様の誇りを、誰よりも尊いと存じます。先代・直盛様への忠義、そのお心に偽りがないことも。ですが、その誇りを守るべき井伊家そのものが、今まさに沈もうとしているのです」
「……黙れ!」
「沈みゆく舟の上で誇りを叫んでも、残るのは屍のみ。それで先代様が喜ばれるでしょうか。井伊家を次代へ繋ぐことこそ、真の忠義ではございませぬか」
直之の喉が鳴った。床に置いた木刀を握る手に、青筋が浮かぶ。
源次は、さらに一歩踏み込んだ。
「中野様。私は、あなた様の誇りを、未来へ繋ぎたい。だからこそ、今は泥水をすする覚悟が必要なのです。どうか――私と共に、この泥水をすすってはいただけませぬか」
直之の瞳に、かすかな揺らぎが走った。
(……俺は、直盛様に誓ったのだ)
彼の脳裏に、桶狭間へ赴く主君の最後の姿が蘇る。
『直之よ、もし我が討たれたなら、井伊を守れ』
『命に代えても、必ず』
その記憶は、彼の全存在を支えていた。それを裏切ることは、死よりも恐ろしい。
「……俺にとって、誇りとは命そのものだ。その誇りを汚すぐらいなら、俺は井伊と共に死ぬ!」
言葉は炎のように激しかった。だが、その炎の奥に――長年の孤独と痛みが潜んでいることを、源次は見抜いた。
彼は畳に額を擦りつけるほどに深く頭を下げた。
「その誇りを守るためにも、井伊を生かさねばなりませぬ。そして、私がこの命を捧げると誓ったのは、徳川殿ではない。この井伊家を、その双肩に背負い立つ、直虎様ただ御一人にございます!」
その言葉は、理屈を超えた魂の叫びだった。
直之は動けなかった。
(……馬鹿な奴だ。だが……本気か)
相手の瞳に映るのは、偽りのない光。己と同じように、井伊を思う者の光だった。
彼の胸の奥に、長年固めてきた氷がひび割れる音がした。
答えは、まだ出ない。だが、心は確かに揺らいでいた。
夜の道場に、二人の呼吸だけが残る。敵ではなく、同志へ。その第一歩が、いま刻まれた。