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第84節『最後の試練』

第84節『最後の試練』

 直虎から許しを得た源次は、その足で真っ直ぐに道場へと向かった。

 彼には分かっていた。家中が分裂した今、若者たちを束ねても、老臣たちを説いても意味はない。井伊家という巨大な岩を動かすには、その中心にある楔、すなわち中野直之という男の心を動かすしかないのだと。


 夜更けの道場には、木刀を振り下ろす鋭い音が響いていた。

 ――バシィッ。

 ――ハッ……!

 中野直之は、ただひたすらに木刀を振っていた。

 大きな体躯に滲む汗、打ち込むごとに畳を震わせる気迫。その背には、ただ一人で井伊を背負おうとする孤高の意志がにじんでいた。評定での屈辱。若者たちの突き上げ。そして、何よりあの漁師上がりの男の存在が、彼の心を乱していた。


 その殺気のただ中へ――。

 「中野様」

 静かな声が差し込んだ。

 直之の肩が震えた。振り返りざま、木刀の切っ先を向ける。

 そこには、灯明に照らされた源次の姿があった。

 「……貴様。何をしに来た」

 切っ先は源次の喉元に届いていた。あと一寸で、血が飛ぶ距離だ。

 直之の眼には、冗談もためらいもなかった。

 しかし、源次は動じなかった。その眼は真っ直ぐで、ただ静かに直之を見返していた。

 「お話がございます」

 「俺と話すことなどない!」

 直之の声は雷鳴のように響いた。長年井伊家を支え、先代に仕え続けた重臣としての誇りと怒りが、その一喝に込められていた。


 源次は、一歩も退かぬまま言葉を重ねた。

 「ですが、中野様。井伊の未来を思うならば、どうしてもお聞きいただきたいのです」

 「未来だと?」

 直之の眼が細められる。「未来など、貴様に語る資格はない! 井伊の血を引くわけでもなく、昨日今日に現れた怪しげな男に!」

 源次は胸の奥に走る痛みを受け止めた。

 それでも、逃げなかった。彼は、まず直之の誇りを傷つけぬよう、慎重に言葉を選んだ。

 「おっしゃる通り。私は井伊の血を引いておりませぬ。……ですが、だからこそ見えるものもございます。そして何より、あなた様のような方がおられるからこそ、井伊は今まで保たれてきたのだと、私は誰よりも理解しております」

 「……何だと?」

 直之の瞳に、かすかな揺らぎが走った。敵意を向けてくると思っていた相手から、敬意のこもった言葉が出るとは思っていなかったのだ。


 源次は、その一瞬の隙を見逃さなかった。

 「どうか、お時間をいただけますまいか。井伊家の行く末を憂う者同士として、ただ一度、腹を割ってお話ししとうございます」

 その声には、策謀の響きはなかった。ただ、井伊家を思う、真摯な響きだけがあった。

 直之は、しばらく黙したまま源次を睨みつけていた。

 木刀の切っ先は、まだ源次の喉元に向けられたままだ。

 道場には、二人の荒い息遣いだけが響く。


 やがて、直之は大きく息を吐くと、忌々しげに木刀を下ろした。

 「……よかろう。だが、戯言を申せば、その場で斬る。それでもよいか」

 「承知の上です」

 源次は深々と頭を下げた。

 こうして、井伊家の未来を左右する、二人の男だけの対話が始まろうとしていた。

 それは、ただの論戦ではない。

 古い誇りと新しい知恵、二つの魂がぶつかり合う、最後の試練であった。

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