第83節『直虎の腹案』
第83節『直虎の腹案』
評定の間には、静寂が戻っていた。
先ほどまで家臣たちの熱気が満ちていた広間は、今はがらんとして、蝋燭の炎が立てるかすかな音だけが響いている。
直虎は、誰もいなくなった座敷を見渡し、疲れたように肩を落とした。そして、末席に控えるただ一人の男に、深い吐息をもらす。
「……見たか、源次」
その声音には、家臣たちの前では決して見せない弱さが滲んでいた。「これが、今の井伊の姿じゃ」
直虎は俯き、細い指で畳をなぞる。
老臣も若武者も、忠義と気概に満ちていた。だが、それはあくまで「心の支え」であって、徳川を動かす力ではない。今の井伊家は、ただ忠義の名の下に分裂しているに過ぎない。
「だが、今の井伊家には彼らしかおらぬ。家中が割れたままでは、誰も動かせぬ……」
その言葉は、領主としての深い孤独と、打つ手のない無力感を物語っていた。
源次は静かに言葉を返した。
「いいえ、直虎様。あれは……井伊家がまだ忠義を失っておらぬ証でもございます」
直虎の瞳が、驚いたように源次を見つめる。その目には、かすかな光が戻っていた。
「……そなたは、いつでも私の心を見透かすようじゃな」
ふっと笑みを漏らし、直虎は姿勢を正した。だが、その表情はすぐに険しさを取り戻す。
「しかし、忠義だけでは戦には勝てぬ。このままでは、あの二人を犬死にさせるだけじゃ。それだけは、避けねばならぬ」
源次は、彼女の言葉に深く頷いた。
そして、覚悟を決めたように口を開く。
(この状況を打開できる人物は、ただ一人しかいない。老臣たちの忠義も、若武者の気概も本物だ。だが、この二つを繋ぎ、一つの力に変えられる楔は、井伊家で最も硬く、最も誇り高いあの男しかいない)
「直虎様。私に、お時間をいただけますでしょうか」
「……何をするつもりじゃ」
直虎の問いに、源次は真っ直ぐに顔を上げた。その瞳には、危険な賭けに挑む者の光が宿っていた。
「この家中の対立を鎮め、井伊を一枚岩にできる御方が、ただ一人おられます。その御方を、私が説き伏せてご覧にいれます」
直虎は息を呑んだ。源次が誰を指しているのか、すぐに悟ったからだ。
「……中野直之を、か?」
「はい」
源次の声は、揺ぎなかった。
「彼こそは、家中随一の武であり、その忠義は誰よりも深い。彼が動けば、家中は必ず一つになりましょう。そして、彼を動せるのは、もはや力でも理屈でもありませぬ。ただ、魂と魂のぶつかり合いのみ」
直虎はしばし黙した。
源次と中野直之。新しい風と、古き誇り。井伊家を二分する二つの極が、直接対峙する。
それは、家中の和睦か、あるいは決定的な決裂か。あまりにも危険な賭けだった。
(源次の言う通りかもしれぬ。だが、もし失敗すれば、井伊は内から砕け散る。しかし……このまま何もしなければ、ただ滅びを待つだけだ)
「……許す」
やがて、直虎は絞り出すように言った。
その一言に、井伊家の未来のすべてをこの男に託すという、領主の覚悟が込められていた。
「だが、もし失敗すれば……」
「その時は、この首を差し出します」
源次は静かに、しかしきっぱりと言い切った。
その覚悟を前にして、直虎はもう何も言えなかった。ただ、深く頷くことしか。
こうして、井伊家の未来を賭けた、もう一つの戦いが始まろうとしていた。
それは戦場での斬り合いよりも、遥かに困難な「説得」という名の戦い。
源次は静かに広間を辞し、ただ一人、嵐の中心へと向かうのだった。