表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
83/344

第83節『直虎の腹案』

第83節『直虎の腹案』

 評定の間には、静寂が戻っていた。

 先ほどまで家臣たちの熱気が満ちていた広間は、今はがらんとして、蝋燭の炎が立てるかすかな音だけが響いている。

 直虎は、誰もいなくなった座敷を見渡し、疲れたように肩を落とした。そして、末席に控えるただ一人の男に、深い吐息をもらす。

 「……見たか、源次」

 その声音には、家臣たちの前では決して見せない弱さが滲んでいた。「これが、今の井伊の姿じゃ」


 直虎は俯き、細い指で畳をなぞる。

 老臣も若武者も、忠義と気概に満ちていた。だが、それはあくまで「心の支え」であって、徳川を動かす力ではない。今の井伊家は、ただ忠義の名の下に分裂しているに過ぎない。

 「だが、今の井伊家には彼らしかおらぬ。家中が割れたままでは、誰も動かせぬ……」

 その言葉は、領主としての深い孤独と、打つ手のない無力感を物語っていた。


 源次は静かに言葉を返した。

 「いいえ、直虎様。あれは……井伊家がまだ忠義を失っておらぬ証でもございます」

 直虎の瞳が、驚いたように源次を見つめる。その目には、かすかな光が戻っていた。

 「……そなたは、いつでも私の心を見透かすようじゃな」

 ふっと笑みを漏らし、直虎は姿勢を正した。だが、その表情はすぐに険しさを取り戻す。

 「しかし、忠義だけでは戦には勝てぬ。このままでは、あの二人を犬死にさせるだけじゃ。それだけは、避けねばならぬ」


 源次は、彼女の言葉に深く頷いた。

 そして、覚悟を決めたように口を開く。

 (この状況を打開できる人物は、ただ一人しかいない。老臣たちの忠義も、若武者の気概も本物だ。だが、この二つを繋ぎ、一つの力に変えられる楔は、井伊家で最も硬く、最も誇り高いあの男しかいない)

 「直虎様。私に、お時間をいただけますでしょうか」

 「……何をするつもりじゃ」

 直虎の問いに、源次は真っ直ぐに顔を上げた。その瞳には、危険な賭けに挑む者の光が宿っていた。

 「この家中の対立を鎮め、井伊を一枚岩にできる御方が、ただ一人おられます。その御方を、私が説き伏せてご覧にいれます」


 直虎は息を呑んだ。源次が誰を指しているのか、すぐに悟ったからだ。

 「……中野直之を、か?」

 「はい」

 源次の声は、揺ぎなかった。

 「彼こそは、家中随一の武であり、その忠義は誰よりも深い。彼が動けば、家中は必ず一つになりましょう。そして、彼を動せるのは、もはや力でも理屈でもありませぬ。ただ、魂と魂のぶつかり合いのみ」


 直虎はしばし黙した。

 源次と中野直之。新しい風と、古き誇り。井伊家を二分する二つの極が、直接対峙する。

 それは、家中の和睦か、あるいは決定的な決裂か。あまりにも危険な賭けだった。

 (源次の言う通りかもしれぬ。だが、もし失敗すれば、井伊は内から砕け散る。しかし……このまま何もしなければ、ただ滅びを待つだけだ)

 「……許す」

 やがて、直虎は絞り出すように言った。

 その一言に、井伊家の未来のすべてをこの男に託すという、領主の覚悟が込められていた。

 「だが、もし失敗すれば……」

 「その時は、この首を差し出します」

 源次は静かに、しかしきっぱりと言い切った。

 その覚悟を前にして、直虎はもう何も言えなかった。ただ、深く頷くことしか。


 こうして、井伊家の未来を賭けた、もう一つの戦いが始まろうとしていた。

 それは戦場での斬り合いよりも、遥かに困難な「説得」という名の戦い。

 源次は静かに広間を辞し、ただ一人、嵐の中心へと向かうのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ