第82節『名乗りを上げる者』
第82節『名乗りを上げる者』
評定の間には、濃い沈黙が垂れ込めていた。
蝋燭の炎が揺れ、屏風に映る影がわずかに震える。そこに座する者たちの呼吸は重く、まるで石を呑み込んだかのように誰も言葉を発しない。
井伊直虎は、末席に控える源次をそっと見やった。その瞳には、言葉以上の願いが込められている。
――お前に頼りたい。
だが、その視線を受けた源次は、動かなかった。直虎の期待は痛いほど伝わってくる。しかし、今ここで自分が名乗りを上げればどうなる? 家臣たちの反発は必至。「またあの漁師上がりがしゃしゃり出てきた」と、せっかく決まった方針そのものが覆されかねない。
(いや、まだだ。ここで俺が名乗れば、全てが俺一人に集まってしまう。井伊家の者が、自らの意志で立ち上がらねば意味がない。この場は……耐えねばならぬ)
重苦しい沈黙が続いた。その沈黙は、まるで座中の誰もが喉に石を押し込まれ、呼吸すら苦しくしているかのようであった。
やがて――。
その石を飲み下すように、ひとりの老臣が、静かに立ち上がった。
ぎしり、と畳を踏む音がした。皆の視線がそちらへ集まる。
立ち上がったのは、最古参の家老。齢七十を越えた老骨である。
背は曲がり、足取りは頼りない。それでも、その姿勢には、不思議な強さがあった。
「……直虎様」
掠れた声が、静まり返った評定に響いた。
「この老いぼれめに、最後のご奉公をさせてはいただけませぬでしょうか」
場がどよめいた。老臣は戦場に立つこともなく、近年は専ら文治の務めを担ってきた人物。誰もが、もはや余生を過ごすだけと思っていた。その彼が――徳川家康という怪物の前に立つ覚悟を示したのである。
「それがしには、若き者のような武威はござりませぬ。されど……井伊家への忠義、この胸の内だけは、誰にも劣るつもりはござりませぬ。この首を賭して、家康公を説き伏せてご覧にいれましょう」
その言葉は、老いた声でありながら、炎のように燃え立っていた。座中の者たちの胸に、その忠義は深く響いた。
その時。
ひとりの若手武士が、膝を進めて老臣の前に出た。まだ二十代の半ば、血気盛んな槍の使い手。源次を信奉する革新派の筆頭格である。
「某も、お供させてくだされ!」
彼は畳に両手をつき、深く頭を下げた。
「老臣お一人を徳川の陣に向かわせるなど、あまりに忍びませぬ。若輩者ではございますが、この槍、この命を賭けて、御老体をお守りいたします!」
老臣の覚悟に、若武者の気概が呼応する。その瞬間、世代を越えた忠義の連鎖が生まれた。
座中からは、自然と「おお……!」という感嘆が漏れた。
「正使に家老殿、副使に若き武士。これこそ井伊家の新旧を結ぶ人選にござる!」
誰かが叫ぶと、他の家臣たちも一斉にうなずいた。沈滞していた空気は一転し、希望に満ちたものへと変わった。
井伊直虎は、静かに微笑んだ。
「……見事な覚悟じゃ」
その声音は、深い感謝に満ちていた。「お主たちになら、安心して任せられる。井伊家の誠を、徳川殿に伝えて参れ」
彼女の言葉に、二人の武士は深々と頭を垂れた。そして、座中の家臣たちも胸を張り、満足げな顔を見せる。
使者の問題は、ついに解決した。そう、誰もが信じた。
だが。
源次の胸には、冷たい予感が残っていた。
(……いや、駄目だ)
老臣の弁舌は確かに立派だ。しかし、家康は実利を重んじる現実主義者。情や忠義の言葉だけで動く男ではない。
(そして若武者の武威も、徳川の陣には本多忠勝のような本物の猛者がいる。比べれば、子供の遊戯にしか見えぬ……)
二人の組み合わせは、一見すると理想的。だが、実際にはあまりに脆い。
――忠義の象徴としては美しい。――だが、家を救う力にはならない。
源次の視線が、直虎へと向かう。
直虎もまた、その不安を悟っていた。口には出さずとも、憂いを含んだ表情がわずかに揺れている。
評定は終わった。家臣たちは安堵の表情を浮かべ、退出していく。
広間に残ったのは、直虎と源次。
言葉は交わさぬ。だが、二人の視線は確かに交錯した。
――彼らでは駄目だ。
その思いを、二人だけが共有していた。
蝋燭の炎が、静かに揺れる。そして、その小さな揺らぎが、未来の大波を暗示しているかのようであった。