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第81節『新たな問題』

第81節『新たな問題』

 直虎が「徳川と手を結ぶ」と宣言してから、数日が経った。

 井伊谷城の評定の間に、ふたたび家臣たちが集められた。前回の評定で見られた熱狂や怒号は消え去り、広間に漂うのは重苦しい沈黙だった。

 源次は末席に座し、静かに周囲を見渡していた。若者の瞳には、熱気の代わりに現実の重圧からくる翳りがさし、老臣の眉間には深い皺が寄っている。

 方針は定まった。だが、それはゴールではなく、地獄の入り口かもしれないのだ。その先を進むために必要な「現実的な一歩」――すなわち徳川へ赴く使者の人選――こそが、真に困難な問題だった。


 直虎は、静かに立ち上がった。

 「皆の者。徳川との同盟を定めた以上、我らはその意を伝える使者を立てねばならぬ」

 涼やかな声が広間に響く。だが、その声に応じる者はなかった。

 「誰か、この大役を引き受ける者はおらぬか」

 問いかけが宙に投げられる。しかし、答える声はなく、沈黙だけが返ってきた。

 源次は心中で呟いた。

 (当然だ……。使者とは、ただの伝令ではない。家康という巨魁と膝を突き合わせ、命を賭して言葉を交わす役目だ。下手を打てば、その場で斬られることさえある……)

 井伊家の者たちが口をつぐむ理由は明らかだった。


 「それがしが参りましょう!」

 沈黙を破ったのは、まだ二十代前半の若武者だった。血気盛んな彼は、勢いよく立ち上がると胸を張った。

 「この命、直虎様のためなら惜しくはございませぬ! 家康公の御前に出向き、井伊の忠義を示してご覧にいれましょう!」

 その言葉に、広間の空気が一瞬動いた。だがすぐに、老臣の一人が低く一蹴した。

 「若造が……。お主のような者が参って、果たして家康公が耳を貸すと思うか。徳川殿は信義に篤き御仁と聞く。だが同時に、一度でも侮りを感じれば、容赦はなされぬ。若さは力ではなく、軽さと映るのだ」

 若武者は唇を噛み、拳を握りしめたまま言葉を失った。


 「では、弁舌でございますな」

 今度は、筆を執ることを生業とする文官が進み出た。

 「家康公は理を重んじると聞き及びます。拙者ならば言葉を尽くして、井伊の正しさをお伝えできましょう」

 しかし、その声を遮るように、武断派の家臣が鼻で笑った。

 「徳川の三河武士どもは、口先だけの男を最も嫌う。力なき者の弁舌は、戯言と映るだけよ。下手をすれば、『井伊には口ばかりで、血を流す覚悟がない』と思われようぞ」

 「……っ」

 文官は額に汗を浮かべ、言葉を失った。


 議論は紛糾した。

 「ならば武威を示せる者が行くべきだ!」「いや、血筋と格式を備えた者でなければ、徳川殿は相手にせぬ!」

 武威、弁舌、家柄――。三つの要素をめぐって家臣たちは口角泡を飛ばした。

 だが、井伊家の現状では、その全てを兼ね備えた人材など存在しない。

 源次は黙ってそのやり取りを見つめながら、冷静に結論を下した。

 (駄目だ……。誰が行っても片手落ちだ。問題の本質は、井伊家に徳川と対等に渡り合えるだけの『総合力』を持つ人材がいないことだ。桶狭間以降、父祖の代から続く度重なる戦で、経験豊富な武将も、老獪な政治家も、そのほとんどが失われてしまった。今ここにいるのは、血気にはやる若者か、旧来の価値観にすがる老臣ばかり。これでは……)


 一方、中野直之は腕を組んだまま、沈黙を続けていた。

 「中野殿、何ゆえ口を開かれぬ」

 誰かが問いかけると、彼は鼻を鳴らした。

 「徳川に付くと決めたのは直虎様だ。ならば、直虎様ご自身でお選びあればよろしい」

 その言葉は、冷や水を浴びせたかのように広間を凍らせた。非協力的な態度。それは議論の停滞に拍車をかけた。

 「な、なんと申すか!」「中野殿、それはあまりにも……!」

 家臣たちが声を荒らげる。だが直之は動じなかった。

 「使者とは命を賭す役目。井伊家の命運を背負い、家康の御前に立つ。その重さを、皆わかっておらぬから軽々しく口にできるのだ」

 冷徹なその言葉に、誰も反論できなかった。


 やがて、議論は完全に行き詰まった。

 評定の間を包むのは、重苦しい沈黙。誰もがこの任務の危険さを再認識し、尻込みしていた。

 (……そうだ。口で言うは易いが、実行は難い。誰一人として、徳川と渡り合える器ではない。必要なのは、弁舌でも、武威でも、家柄でもない。徳川の懐に飛び込み、彼らの欲するものを見抜き、それを井伊が与えられると信じさせる力――それこそが、真に求められる交渉力だ)

 源次は、末席で深く息を吐いた。

 評定の中央で、直虎は疲れたように目を閉じた。議論は堂々巡り。誰も答えを出せない。

 そして――ゆっくりと目を開いた彼女の視線が、ふと末席へと向けられる。

 助けを求めるかのように。託そうとするかのように。

 その瞳は、ただ一人の男――源次へと注がれていた。

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