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第80節『歴史の転換点』

第80節『歴史の転換点』

 評定の間を包んでいた緊張は、直虎の宣言とともに弾け飛んだ。

 「井伊は――徳川と手を結ぶ!」

 その言葉が広間に落ちた瞬間、空気は二つに裂かれた。若き家臣たちは歓声を上げ、畳を叩き、涙を流しながら未来を夢見た。一方、老臣や保守派は顔を曇らせ、唇を噛み、無言のまま石像のように固まっていた。

 源次は、そのど真ん中に立っていた。

 歓喜と絶望、両極の視線が一斉に彼を貫く。温かな陽光のような眼差しと、冷たい刃のような憎悪。その両方を受けながら、彼は不思議なほど冷静だった。

 (……これが、歴史の転換点ってやつか)

 自分の存在が、井伊家をこの道へと導いた。それを悟った瞬間、背筋を撫でる寒気にも似た責任感が押し寄せた。


 「源次殿!」

 評定が散じた途端、若手の家臣たちが雪崩のように彼のもとへ押し寄せた。

 「見事でした!」「あなたこそ、井伊の救い主にございます!」「直虎様がご決断されたのも、すべて源次殿のお力!」

 その勢いは、まるで戦勝の凱旋を迎えた英雄に向けられる熱狂だった。肩を叩かれ、腕を掴まれ、胴上げせんばかりの勢いで彼を称える。

 源次は曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。「い、いや……私はただ、口を挟んだにすぎぬ……」

 「謙遜なさるな!」「これからは源次殿を柱として!」「井伊の若き力は、すべてあなたに従いますぞ!」

 言葉の端々に、派閥の匂いがあった。彼らはもはや直虎だけでなく、源次を新しい井伊を導く新たなリーダーと見なし始めている。

 その背後。老臣たちは無言で立ち去ろうとしていた。誰も口に出さぬが、その眼差しは憎悪に満ちていた。

 「……疫病神め」

 誰かの低い呟きが、源次の耳に届いた。振り返らずともわかる。彼らにとって、自分は井伊の秩序を壊した張本人。

 中野直之に至っては、無言のまま席を立ち、静かに廊下を去っていった。怒号でも罵声でもなく、ただ沈黙。だがその背中は、どんな咆哮よりも恐ろしく思えた。

 (……あの沈黙が、後に何を呼ぶのか)

 源次は、背筋に冷たいものを感じた。


 夜。

 城内にようやく静けさが戻ったころ、源次は直虎の私室に呼ばれた。

 灯火が揺らめく座敷には、疲労と安堵の入り交じった空気が漂っていた。

 直虎は几帳の陰から姿を現し、手ずから酒を注いだ。

 「……礼を言うぞ、源次」

 盃を差し出す直虎の声は、領主のそれではなく、一人の女の声だった。

 「そなたがいなければ、私は迷いに沈み、決断を下せなんだやもしれぬ」

 源次は盃を受け取り、わずかに震える手を隠しながら口をつけた。

 (推しからのデレきたー!最高の瞬間だ……!)

 心の中で絶叫しながらも、表情は努めて冷静を装った。

 「……いえ、直虎様」

 彼は盃を置き、静かに言葉を紡ぐ。「舟はまだ港を出たばかり。これからが本当の荒波にございます」

 直虎は一瞬黙し、やがて小さく笑んだ。「まこと、そなたは……影にあって影にあらず、か」


 二人は酒を酌み交わしながら、今後の課題を語った。

 徳川に誰を使者として送るか。家康をどう説得するか。そして、最大の懸念である反対派、特に中野直之をどうするか。

 問題は山のように積み重なっていた。

 「中野は……恐らく従うまい」

 直虎の声は低かった。「出奔か、それとも……」

 「最悪は、今川や武田へ内通、ということも」

 源次の言葉に、火の粉が弾けたように灯火が揺れた。二人の視線は、互いに沈黙で交わった。


 やがて、酒が尽きた頃。

 直虎はふと真剣な眼差しで源次を見据えた。

 「源次。そなたは、この井伊の中心におる」

 その言葉は, まっすぐに彼の胸に突き刺さった。「もはや、ただの近侍ではないぞ」

 源次は、息を呑んだ。

 若手たちの熱狂。古参たちの敵意。そして、直虎からの絶対的な信頼。

 すべてが、自分を「影」ではいられなくしていた。

 (俺は……この舟の、水先案内人にならなければならないのか……)

 誇らしくも、恐ろしい。だが逃げることはできない。

 静かに頭を下げる源次の瞳には、覚悟の炎が宿っていた。


 部屋を辞し、一人月明かりの下を歩きながら、源次は自らの立場を冷静に分析していた。

 (面白い状況になったもんだ)

 歴史研究家としての血が騒ぐ。

 (俺が知る史実では、この永禄十一年末からの井伊家は、まさに地獄だ。武田と徳川の草刈り場と化し、家臣は次々と離反。領地は切り取られ、直虎様は心労の果てに……。結局、家は一時的に滅亡に近い状態まで追い込まれるはずだった)

 だが、現実は違う。

 (家は割れている。だが、滅びに向かってはいない。若手には希望が生まれ、直虎様は未来を見据えている。俺という『触媒』が加わったことで、歴史は明らかに違う方向へ動き始めている)


 興奮と同時に、冷徹な問いが頭をよぎる。

 (果たして、俺は歴史を変えたのか? それとも、これもまた大きな流れの中の必然だったのか? 結局、井伊は徳川に仕えるという結末は同じ。俺はただ、その過程を少しだけ変えたにすぎないのかもしれない)

 だが、すぐにその考えを振り払った。

 (いや、違う。過程こそが重要なんだ。俺の目的は、天下の行く末を変えることじゃない。ただ一つ、推しを、直虎様を、史実の裏で待っていたはずの苦難から救うことだ。そのために、俺はこの転換点の中心に立ち続ける)

 英雄か、疫病神か。そのどちらに転ぶかは、これからの自分の働き一つにかかっている。

 その瞬間から、彼の新たな戦いが始まろうとしていた。

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