第8節『井伊家という選択』
第8節『井伊家という選択』
丘の上に座り込んだ源次は、燃え落ちた村を遠くに眺めながら、静かに目を閉じた。
焼け焦げた木の匂いと、夜風に混じる灰の粉が肺を刺す。だが彼の内側は、不思議なほど澄み切っていた。
「……次の一手を決めるぞ」
声に出すことで、思考の歯車に確かな駆動音を与える。
村を失い、名も家も根も絶たれた自分に残された道はただ一つ――どこかに身を置き、生き抜くこと。
そのためには、歴史の知識を最大限に活用し、最も合理的な選択肢を見出さねばならない。
源次は脳裏に広がる地図を思い描いた。遠江国――その西に三河があり、徳川家康の領が伸びつつある。
「徳川に仕える……それが最終目的だ。しかし今すぐは無理だ」
彼は自らに言い聞かせる。
実績も血筋もない流れ者が、いきなり徳川の旗本になど取り立てられることはない。
となれば、踏み台となる勢力が必要だ。
条件は三つ。
徳川に近いこと。
今川の影響力が弱まっていること。
そして――人材が不足していて、異端者でも入り込める隙があること。
「さて、どこだ……」
地図の上にいくつもの国人領主の名が浮かんでは消えていく。
条件の絞り込み
「西遠の方はどうだ……」
彼は浜名湖の西側を思い浮かべた。だがそこは徳川の譜代家臣の勢力が色濃い。余所者が入り込む余地はない。
「東遠は……今川の影響がまだ強いな。下手に近づけば、駒として使い潰されるだけだ」
消去法の刃が、候補を次々と断ち切っていく。
「……では、国人領主たちは?」
奥山、菅沼、天野……頭に浮かぶ名を一つひとつ吟味する。
「奥山は武田寄りすぎる。
菅沼は今川との結びつきが強すぎる。
天野……いや、ここも宗家が今川の目を恐れて動けない」
残る選択肢は少ない。
脳裏の地図が行き詰まり、源次の胸に焦燥の影が差す。
「……ないのか。この条件に合致する勢力は」
爪が膝に食い込む。思考の糸はどこかで絡まっているのか。
冷静を保とうとすればするほど、焦りがせり上がってきた。
閃光の如き解答
そのとき――胸奥にふと浮かぶ一つの言葉。
「……人手不足……?」
源次の意識が一点に絞り込まれる。
「男手が絶え、常に人材を求めていた家……そんな一族が、確か……」
遠い記憶が脳裏に閃光のように走る。
大学時代、論文執筆のために読み込んだ戦国史の資料。そこに記されていた、一族の名。
「そうだ……井伊家!」
彼は思わず立ち上がっていた。
すべての条件が、完璧に合致する。
井伊谷は遠江の西端、徳川領と隣接する土地。
相次ぐ当主の死で、男の後継ぎはことごとく失われ、家中は常に人手不足。
しかも今川の圧迫を受けつつも、その力は衰え始め、徳川との接触を模索している。
「これしかない……!」
夜風が頬を打つ。だが源次の心は熱を帯び、頭蓋の内側で血潮が沸騰するようだった。
『推し』という名の天啓
そして――その答えの中から、さらにもう一つの名が姿を現した。
「……井伊直虎」
口にした瞬間、胸の奥で何かが爆ぜた。
資料で幾度も目にした姿。
男たちが次々と死に、家の存続が絶望的となったとき、自ら尼となり、女ながら地頭として井伊家を背負った女性。
「悲劇の女地頭……井伊直虎」
その像が、焔に照らされた幻のように脳裏に浮かぶ。
気丈に背筋を伸ばし、家臣たちの前に立つ。孤独を抱えながらも、井伊の名を守り抜こうとした姿。
「ああ……そうか……!」
理解が胸を貫いた。
これまで冷徹に積み上げてきたロジックが、一瞬で吹き飛ぶ。
「俺の……推しが、いるじゃないか!」
声が震えた。涙が、焼け跡の匂いとともに熱く込み上げてくる。
爺さんが死んで、村が焼かれて――生きる意味を見失いかけていた。
だが今、この胸には確かに灯がともった。
「そうだ……俺は、この時代に来た意味を見つけたんだ」
笑いとも嗚咽ともつかぬ声が、夜空に吸い込まれていく。
生存戦略? 天下取り? それも必要だ。
だが、それ以上に――。
「俺は、井伊直虎を守る。俺の推しを、この戦国の世で守り抜く!」
拳を握る。その爪が掌に食い込んでも、痛みすら甘美に思えた。
「徳川のためでも、天下のためでもない。
俺の推しを救うために、この知識を使い尽くす!」
炎の残り香ただよう夜に、彼の誓いは鋼のように固まった。
源次の眼に、人間らしい光が戻っていた。
それは絶望の灰の中で見出された、一筋の希望の光――推しという名の、永遠の導きだった。