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第79節『宣言』

第79節『宣言』

 廊下で源次と別れた直虎の足取りには、もう迷いはなかった。

 新太という最大の脅威が、今や井伊家の隠された刃となった。この事実が、彼女の胸の内に巣食っていた最後の恐怖を完全に拭い去っていた。家臣たちがまだ知らぬこの切り札を胸に、彼女はこれから始まる嵐の中心へと、揺るぎない覚悟で歩を進めた。


 評定の間には、異様な静けさが満ちていた。

 広間の中央、真新しい畳の上に整然と並ぶ家臣たち。その眼差しは、すべて上座の一角に注がれている。

 障子越しに射し込む朝の光が、張り詰めた空気をさらに際立たせていた。

 やがて、襖が音を立てて開く。

 現れたのは井伊直虎。昨夜までの憔悴は微塵もなく、顔には鋼のような決意が宿っていた。

 白木の柱に反射する光に、彼女の瞳が一瞬、鋭く輝く。その姿に、家臣たちは息をのんだ。


 直虎は言葉を発せず、ただ静かに歩みを進める。

 裾が畳を擦るわずかな音すら、誰の鼓膜をも震わせるかのようだった。

 上座に腰を下ろすと、彼女は何も語らず、まず家臣たちを一人ひとり見渡した。

 右手に並ぶは、中野直之を筆頭とする保守派。その表情は険しく、眼差しには怒りと不信が渦巻いている。

 左手に座すは、若手を中心とした革新派。不安と期待が入り交じり、未来を信じたいという光が目に宿っていた。

 老臣たちは、ただ静かに俯いている。

 直虎は、そのすべてを、領主の眼差しで受け止めた。

 ――嵐の前の静けさ。

 時間が凍りついたかのような沈黙が、広間を支配する。


 やがて、直虎がゆっくりと口を開いた。

 「……昨夜、皆の意見は聞いた」

 低く、しかし凛とした声が畳を震わせる。家臣たちは一斉に姿勢を正した。

 「いずれも、井伊を思うが故の言葉。しかと胸に刻んだ」

 直虎は、まず右手――中野直之へと視線を向けた。

 「直之。そなたの言う誇り、私もまた同じ思いじゃ。父祖への義理を忘れたことはない。井伊の旗の重さ、誰よりも私が知っておる」

 その言葉に、中野の眉がわずかに動いた。頑なな心が、一瞬だけ和らいだかのように。

 次に直虎は、左手――若き家臣たちへと視線を移した。

 「そして、そなたらの言う未来への思い、それもまた真である。生き残らずして、誇りを語ることはできぬ」

 若者たちの目が見開かれる。光が差し込んだように、その瞳に希望の色が宿った。


 直虎は、両派を見渡し、ゆっくりと立ち上がる。

 衣の袖が揺れ、評定の間に緊張が走った。

 彼女は一度、深く息を吸い込む。

 そして、これまでになく凛とした声で言い放った。

 「その上で――」

 間。誰もが次の言葉を待ち、息を止める。

 「我が意は決した」

 声は鋼鉄のように響き渡る。「井伊は――徳川と手を結ぶ!」

 その瞬間、空気が爆ぜた。評定の間は、大地が割れるかのような衝撃に包まれた。


 「おおおおおっ!!」

 若手の家臣たちが一斉に立ち上がり、畳を叩いて歓喜の声を上げる。

 「ついに……ついに井伊が生き残れる……!」「徳川と共に、新しい時代を!」

 叫びが次々と重なり、広間を揺らす。

 一方、中野直之は、その場に膝から崩れ落ちた。

 「……終わった」

 掠れた声が、歓喜の喧騒の中に沈む。「井伊は……終わった……」

 彼の眼には、先祖の誇りが地に落ちる光景が映っていた。その肩は震え、両の拳は畳を叩きながら血が滲むほど握り締められていた。

 絶望と歓喜。二つのときが、同じ広間に響き渡る。


 直虎は、その光景を静かに見つめていた。

 両極端の感情を受け止めながら、ただひとり、揺るぎなき当主として。

 彼女の眼差しは、やがて末席へと向いた。

 そこには、深く頭を垂れる源次の姿があった。

 直虎の瞳に、一瞬だけ柔らかな光が宿る。

 源次はその視線を感じながら、胸の奥で叫んでいた。

 (……やった。推しが、未来を選んでくれた……!)

 歓喜も涙も、彼は表に出さなかった。ただ、歴史の陰に身を置く者として、深々と頭を下げ続けた。

 直虎の宣言が放たれた瞬間、井伊の舟は大海へ漕ぎ出した。

 その舵が正しかったのか、間違っていたのか。

 答えはまだ誰にも分からない。

 だが――。

 確かなことはひとつ。井伊は生きる。

 そして、その決断の先に、新たな時代が始まるのだ。

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