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第78節『源次の説得』

第78節『源次の説得』

 夜明け前の廊下は、凍りつくように静まり返っていた。

 井伊谷城の奥、評定の間へと続く長い回廊。

 障子越しに差す光は、まだ白く頼りない。

 一歩を踏み出すごとに、直虎の草履が板を軋ませた。昨夜、彼女は覚悟を決めたはずだった。徳川に従う――その選択が井伊の未来を繋ぐ、ただ一つの道だと。

 だが、その決断は、同時に家中の流血を招く。武田を推す者たちの怒りを、彼女は正面から受けねばならない。

 直虎の足は、重かった。


 そのとき。

 廊下の曲がり角に、人影が立っていた。

 薄明の逆光の中、その姿は黒い影となって浮かんでいる。

 「……源次」

 直虎の口から、自然にその名がこぼれた。

 源次は深く膝を折り、静かに頭を下げた。

 「直虎様。評定へ向かわれるお姿……心は、定まりましたか」

 その声は、ひどく穏やかで、しかし胸の奥を震わせるほどの真摯さを帯びていた。

 「……そなた、私の心を見透かすな」

 直虎は苦く笑った。だが源次は微笑まず、真っ直ぐに顔を上げて彼女を見つめた。

 「直虎様。どうか迷われませぬよう」

 その眼差しは、曇りなく澄んでいた。まるで未来をその目に映しているかのように。


 直虎は、ふと足を止めた。

 「……一つ、懸念がある。我らが徳川と手を結べば、北の砦の新太は必ず動く。背後を突かれれば、井伊はひとたまりもない」

 それが、彼女の決断を鈍らせる最後の枷だった。

 しかし、源次の口元にかすかな笑みが浮かんだ。

 「その儀でしたら、ご心配には及びませぬ。事は、成りました」

 その一言に、直虎は息を呑んだ。

 源次は、時間を遡るように語り始めた。彼が岡崎での調査を終え、井伊谷に戻る道中、密かに準備を進めていた計画の結末を。

 「満月の夜、私は一本松で彼を待ちました。やがて現れた新太殿に、私は母君・伊和殿の真実を伝え、証拠の木彫りを渡したのです」

 「……して、彼は」

 「初めは激しく動揺し、刃を向けられました。ですが、母君の遺品を前に、彼は己が信じてきたもの全てが偽りであったと悟ったご様子。……そして、私は彼に提案いたしました」

 源次の声が低くなる。

 「『貴殿の真の敵は井伊ではない。母君を不幸に陥れ、貴殿自身をも駒として使い捨てる武田家そのものではないか』と。……彼は、ついに折れました」


 「では、新太は……」

 「はい。彼は井伊に降りました。ただし、表立っての寝返りではありませぬ。彼は配下と共に忽然と姿を消し、『行方不明』となることを選びました。これにより、武田の北の砦は指揮官を失い、機能不全に陥ります。武田家中は、彼が井伊に寝返ったのか、あるいは徳川に走ったのか、はたまた事故か、その真相を掴めぬまま混乱し、しばらくは身動きが取れなくなるでしょう」

 直虎は戦慄した。これは単なる調略ではない。敵の戦力を削ぐだけでなく、敵国そのものを内側から揺さぶる、恐るべき謀略だ。

 「なんと……」

 源次はさらに続けた。

 「そして、彼が身を隠す先の山里には、重吉殿を通じて密かに兵糧と薬を届けさせております。いずれ彼が我らの刃となるその日まで、飢えさせるわけにはまいりませぬ故」

 その言葉に、直虎は目を見開いた。源次は、敵を陥れるだけでなく、降った者を仲間として迎え入れる準備まで進めていたのだ。

 「我らにとって、これ以上ない時間稼ぎとなりましょう。その間に、徳川との同盟を盤石のものといたします」

 

 直虎の眼差しには、もはや迷いはなかった。領主の顔であった。

 「……源次。そなたの言葉で、覚悟は決まった」

 源次は深く頭を垂れた。

 直虎は、振り返らなかった。足取りは、もう重くはない。

 確かな歩みで、評定の間へと進む。その背中を、源次は深々と頭を下げて見送った。

 言葉以上の、絶対的な信頼が、二人の間に流れていた。

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