第77節『直虎の苦悩』
第77節『直虎の苦悩』
評定が終わった広間は、いまや静まり返っていた。
だが、直虎の耳の奥には、まだあの怒声とざわめきが残響していた。
若者たちの希望に満ちた叫び。そして、古参たちの誇りを守ろうとする悲痛なまでの抵抗。源次という男が投じた一石は、井伊谷という静かな水面に、あまりにも大きな波紋を広げてしまった。
直虎は、障子を閉め切った薄暗い自室で膝を抱えていた。
蝋燭の炎が、疲れ果てた彼女の顔を照らし出す。
「……私が……家を割ってしまった」
声はかすれ、己の喉から洩れたとは信じられぬほど弱々しかった。
――私は、領主として失格ではないか。
その自責の念が、彼女の胸を締め付けた。
目を閉じると、闇の中から声が響いてきた。
「直虎様……お忘れか」
重く、苦い声。中野直之の声であった。いや、正確には――彼女の心の中に巣食う、「過去」の声が彼の姿を借りて語りかけているのだ。
「我ら井伊が、いかにしてこの遠江に根を張ってきたかを。幾百年、血を流し、牙を剥き、敵に屈せず戦い続けた。誇りを、忘れなさるな」
暗闇の中に、先祖たちの影が浮かぶ。鎧に身を包み、刀を携え、血に塗れながら戦い抜いた男たちの姿。
そして、亡き父・直盛の顔が浮かぶ。父は、桶狭間の戦いで主君・今川義元と共に討ち死にした。父だけではない。井伊家の男たちの多くが、あの戦で命を落とした。
許嫁であった亀之丞(直親)も、父の跡を継いだものの、今川からの謀反の疑いをかけられ、無念の死を遂げた。
男たちが、次から次へと死んでいく。井伊家の血筋は、まさに途絶えようとしていた。
だからこそ、私は尼になるはずだった身で、還俗し、男の名「直虎」を名乗り、この家を継いだのだ。これ以上、誰も死なせないために。この井伊谷を守るために。
父の厳しい眼差しが、直虎の心臓を射抜いた。「家名を汚すことだけは、断じて許さぬぞ」
――誇りを捨てるか。――成り上がり者・徳川の下風に立つか。
「それで井伊の名を後世に伝えられると、本気で思うておるのか」
鋭い声が彼女を責め立てる。直虎の胸は焼けるように痛んだ。
「……私は、誇りを守りたい。父上……」
彼女は無意識にそう呟いていた。
だが、そのとき――
「直虎様」
風のように柔らかく、だが確かな響きを持った声が闇を裂いた。源次の声だった。
「時代は変わります。古き誇りは、人を縛り、時に滅ぼす枷ともなります」
その声は、蝋燭の炎に似ていた。小さいが、確かに闇を押し返す光。
評定の間で若者たちの瞳に宿っていた、未来への渇望。源次という男がもたらした、新しい風。その風は、井伊家を根底から揺さぶる嵐かもしれぬ。だが同時に、この停滞した空気を打ち破る唯一の希望の息吹でもあるのだ。
「生き残ること。次代に繋ぐこと。それこそが、井伊に命を賭けた先祖たちへの、最大の義ではありませぬか」
直虎は目を開けた。そこには誰もいない。だが、源次の姿が鮮やかに脳裏に浮かぶ。
(……未来に生き残ることが義、だと?)
直虎は、自分の胸の奥で二つの声がせめぎ合うのを感じた。
中野の声が怒鳴る。「生き残れば良いのか! 誇りなくして井伊はただの器にすぎぬ!」
源次の声は静かだった。「誇りのために滅ぶは容易。だが、誇りを曲げて生き抜くは、より困難な道。領主として背負うべきは、楽ではなく、最も重い責め苦ではありませぬか」
直虎の手が震えた。二つの声が、天秤の両端に重くのしかかる。
過去か、未来か。誇りか、生存か。
どちらも正しい。どちらも井伊を思うが故の言葉。
だからこそ――選ぶことが、何よりも苦しい。
蝋燭の炎が揺れ、油の匂いが漂った。
夜は深まり、やがて東の空がわずかに白んでいく。
直虎は膝を解き、ゆっくりと立ち上がった。
「……誇りを守って滅びる道と、誇りを曲げてでも生き残る道」
その声は低く、しかし確かだった。
「どちらも、辛く……険しい……」
領主として。一人の女として。その二つの願いがせめぎ合い、胸を裂くように痛む。
だが――もう迷いは許されない。
「……夜明け、か」
窓の外には、薄明の光が広がっていた。その光を見つめる直虎の顔には、静かだが鋼のような覚悟が宿っていた。
決断とは、何かを得ることではない。必ず、何かを失うこと。その非情を受け入れる覚悟を、彼女は固めたのだ。
直虎は静かに息を吸い込み、障子を押し開けた。
評定の間へと向かう。
そこには、彼女の決断を待つ家臣たちがいる。
そして彼女は――井伊家の未来を左右する最後の言葉を、告げるだろう。