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第76節『反対と賛成』

第76節『反対と賛成』

 「誇りを守り抜くことと、家を滅ぼすことは違う……私はそう信じます」

 源次の静かな、しかし揺るぎない言葉が、評定の間に重く響いていた。

 中野直之は唇を噛み、反論の言葉を探した。彼は矛先を変え、この提案の最も根本的な欠点を突くことにした。

 

 「……よかろう。家の存続が第一、その理は認めよう」

 一度はそう認めつつも、直之の声は冷ややかさを増していく。

 「だが、その土台そのものが砂上の楼閣ではないのか! 徳川家康は、今川義元公に忠誠を誓いながら、桶狭間の後にその恩を忘れ、裏切った男だ! そのような信義なき裏切り者を、どうして信用できようか!」

 その言葉に、それまで沈黙していた古参の家臣たちが、堰を切ったように頷き始めた。

 「中野殿の言う通りだ!」「一度裏切った者は、二度裏切る。我らとて、いつ捨て駒にされるか分かったものではない!」

 一拍置いて、直之はさらに声を強める。

 「後ろ盾の織田信長とて、気まぐれで残虐と聞く。いつ井伊を見捨て、敵に売り渡すやも知れぬ! この源次とやらが申すことは、希望に見えて、実は底の抜けた舟に過ぎぬ!」

 その論は、感情に満ちていながらも確かに理を孕んでいた。


 だが、その沈黙を破ったのは若き声だった。

 「中野殿! 古き誇りを守るために、我らは民を見殺しにせよと申されるか!」

 佐久間川の奇襲に参加し、源次の策で生き延びた若武者であった。

 「誇りも義も、食うものを失い、命を落とした後では何の役にも立たぬ! 源次殿は、我らを死地から救ってくださった! その知略と胆力、そして未来を見据える眼に、我は己の命を預ける覚悟がある!」

 次々と若手の声が上がる。彼らにとって源次は、旧態依然とした井伊家を救う、新しい時代の象徴だった。古参の家臣たちは顔を険しくし、直之は苦々しげに歯を食いしばる。


 やがて、源次が口を開いた。

 「中野殿」

 その声は驚くほど静かだった。

 「御懸念、ごもっともにございます。確かに家康公は、かつて今川を裏切った。その不安、拙者も重々承知しております」

 直之は黙したまま、だがその眼光は源次を刺していた。

 源次はゆっくりと歩を進め、皆の前に立った。

 「されど、私が岡崎で見た家康公は……裏切り者でも、冷酷な覇王でもございませんでした。むしろ、その逆です。家康公は、一度結んだ信義は決して違えぬ御方。桶狭間の後、彼が今川を離れたのは裏切りではなく、滅びゆく主家から三河の民を守るための、苦渋の『独立』だったのです。現に、彼は織田信長という強大な隣人と同盟を結び、それを今日まで破ることなく保ち続けている。これこそが、彼が信義に篤いことの何よりの証左」

 評定の間に、ざわめきが広がった。

 直之は冷徹な声で、最も鋭い刃を突きつけた。

 「……貴様、そこまで徳川を褒めそやすとは。さては、徳川から送り込まれた回し者か?」

 その言葉に、広間の空気が凍り付いた。

 しかし、源次は動じなかった。彼は静かに首を横に振ると、真っ直ぐに直之を見返した。

 「もし私が徳川の回し者ならば、家康公の良いところばかりを語りましょう。されど、私は彼の弱さも見て参りました。家康公は、あまりに情が深い。三河一向一揆では、一度裏切った家臣すら許し、再び家中に迎え入れた。美談に聞こえましょうが、見方を変えれば、それは組織としての甘さにも繋がる」

 源次は一歩踏み出した。

 「私が申し上げておるのは、徳川が完璧な主君だということではありませぬ。武田にも、今川にも、そして徳川にも、光と影がある。その上で、我ら井伊が生き残るために、どの影が最も浅く、どの光が最も未来を照らすのかを見極めるべきだと申しておるのです」

 

 その言葉に、直之は反論の言葉を失った。源次は徳川を盲信しているわけではない。冷静に長所と短所を分析し、その上で井伊家にとっての最善手として「徳川」を選んでいる。

 源次は最後に、広間にいる全員に、そして上座に座す主に聞こえるよう、はっきりと告げた。

 「そして何より、私がこの井伊家を裏切ることなど、決してありませぬ。なぜなら――」

 彼は一度言葉を切り、直虎を真っ直ぐに見上げた。

 「私がこの命を捧げると誓った御方は、この日ノ本にただお一人。この井伊家を、その双肩に背負い立つ、井伊直虎様ただ御一人だからにございます!」

 その言葉は、理屈を超えた魂の叫びだった。家臣たちは息を呑む。これほどまでに真っ直ぐな忠誠の言葉を、彼らは久しく聞いていなかった。

 (そうだ。俺の行動原理は、いつだってこれだ。歴史がどうとか、天下がどうとか、そんなものはどうでもいい。俺はただ、あの人のため息を、もう聞きたくないだけだ。あの孤独な背中を支えたい。あの人に笑っていてほしい。そのために、俺はこの身も、この知識も、全てを捧げる!)


 直之は言葉を失った。源次の瞳に宿る光は、偽りのない、純粋な忠義の色だった。

 若手たちの目は輝いていた。その瞳は「未来」を映していた。

 井伊直虎は静かにその光景を見つめていた。家臣団は分裂した。だが同時に、新たな力が芽吹いたのも確かだった。

 「……井伊に、新しい風が吹き始めた」

 直虎は心の中でそう呟いた。

 その風が、嵐となるのか、希望の息吹となるのか。

 答えは、まだ誰にも分からなかった。

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