第75節『第三の道』
第75節『第三の道』
評定の間には、なお怒声の余韻が残っていた。
つい先ほどまで家臣たちは罵り合い、互いの胸倉を掴まんばかりに激していたが、もはやその熱も冷め、抜け殻のように座敷に崩れ落ちている。
中野直之は拳を膝に押しつけ、血の滲むほどに爪を立てていた。若手の家臣たちは項垂れ、唇を噛みしめている。
敗北感が、部屋の隅々にまで染み渡っていた。
直虎は、その中心に座していた。先ほどまで必死に声を張り上げていた喉は痛み、いまや息をするのも重い。
(これが……我が家臣たちの姿か)
井伊家を繋ぐはずの評定は、結論を出せぬまま砕け散った。忠義か、降伏か。誰もが己の正義を叫んだが、その叫びは互いを削り合っただけだった。
「(ここまで、か……)」
胸の奥から、深く重いため息がこぼれ落ちた。眼差しから光が消えかけた、その時だった。
その頃、源次は評定の間のすぐ外、障子一枚を隔てた廊下で静かに膝をついていた。城に戻るなり、彼は評定が開かれていることを知り、すぐさまこの場所へ向かったのだ。中の議論は、一言一句、彼の耳に届いていた。
(皆、袋小路だ。どの道を選んでも滅びるという絶望に囚われている。……だが、だからこそ好機だ。全ての選択肢が尽き果てた今この瞬間こそ、誰も思いつかなかった第三の道を示す、絶好の機会)
彼は、ただ待った。怒号が静まり、完全な絶望が広間を支配する、その一瞬を。
障子が、静かに開いた。
ギィ……という軋む音が、座敷にいた全員の耳に刺さった。誰もが顔を上げる。
その入口に、旅装束の男が立っていた。
泥に汚れた脚絆、埃をかぶった羽織。長き道のりを駆け抜けたことを物語る疲労の色が、全身に刻まれている。
だが――その双眸は澄み切り、光を宿していた。
「……源次殿!」
誰かが叫んだ。その声をきっかけに、広間がざわめく。
崩れかけていた空気が、一瞬にして張り詰めた。
直虎の胸が大きく揺れた。(……源次……!)
潰えかけた心の奥底に、小さな炎が再び灯る。彼女の瞳に、再び光が戻り始めた。
源次はゆっくりと歩みを進めた。家臣たちの視線が、一斉に彼へと集まる。
その歩みは疲れているはずなのに、不思議と確かな重みがあった。
彼は直虎の前に進み出て、深々と頭を下げた。
「御当主様――ただいま戻りました」
その声は、広間の沈黙を打ち破る鐘の音のように響いた。
直虎の胸の奥で、張り詰めていた糸がようやく緩むのを感じた。
「……うむ。よう戻った、源次」
声は低く抑えられていたが、その一言には、労いと安堵、そして深い信頼が込められていた。
源次は顔を上げ、座り込む家臣たちを見渡した。
「……皆様の議論、外にて耳にいたしました」
その声は低く、だが揺るぎなかった。
「武田に降るも、今川に殉ずるも――どちらも、井伊が滅びる道にございます」
言葉が、広間を切り裂いた。中野直之が勢いよく立ち上がる。
「ならば、どうせよと申すか!」
その目には苛立ちと焦燥が混じっている。
源次は一歩も退かず、静かに告げた。
「――第三の道がござります」
広間にざわめきが走る。
源次は懐に手を入れ、瓦の欠片を取り出した。そこには、葵の御紋が刻まれている。それは彼が岡崎で密かに入手した、徳川との接触を示す証だった。
「我らが結ぶべきは、武田でも今川でもない」
彼の声が、強さを増す。「――三河の徳川にございます」
「徳川……だと……!?」
家臣たちは一斉にざわめき立った。誰もが予想だにしなかった名だった。
「徳川など、かつて今川の小姓に過ぎぬではないか!」「頭を下げよと? あの三河の小国に!」「恥辱も極まれり!」
声が飛び交う。怒り、戸惑い、侮り――感情が乱れ、広間が揺れた。
源次はその中で、ひときわ落ち着いた声音を放った。
「確かに徳川は小さい。だが、侮ってはならぬ。私は岡崎で、この目で見て参りました」
家臣たちの視線が、再び彼に集まる。
「城下の民は笑い、商いは活気を帯びております。兵は少数ながらよく鍛えられ、領主に忠を尽くしている。……その背後には尾張の織田信長がございます。今川を討った桶狭間の勝者。その勢いに連なる者が、徳川にございます」
広間がどよめいた。
源次の声は止まらない。
「武田は強大ゆえに、我らを呑み尽くす。今川は亡霊ゆえに、共に滅ぶ。……されど徳川は、まだ小さい。だからこそ、我ら井伊にとって入り込む隙がある。主従の形を取ることにはなりましょう。屈辱はございましょう。だが、家を残すためには、それしか道はないのです」
直之が叫ぶ。
「井伊が徳川の配下に落ちると申すか! それは、武田に降るのと何が違う!」
源次はその視線を真正面から受け止めた。
「違います。武田に呑まれれば、井伊の名は消えます。徳川に従えば、井伊の名は残る。井伊谷の地も、守られるやもしれぬ。……我らの子らに未来を託すことができるのです」
若手家臣の一人が、立ち上がった。
「……源次殿、本当に、徳川は我らを受け入れるでしょうか」
源次は力強く頷いた。
「必ずや。彼らは今、味方を求めております。西から迫る今川の残党、北から睨む武田。その狭間にて、彼らは孤立している。井伊が加われば、彼らにとっても力となりましょう」
若手の瞳に、希望の光が宿った。
一方で、直之の表情は険しさを増していく。
(やはり、噂に聞く通りか……。徳川という男は、三河の国衆を次々と配下に組み込み、鉄の如き結束を築いていると。源次の報告は、それを裏付けるものだ)
「だが……徳川に従うということは、我らがこれまで守ってきた国衆としての独立を捨てるということ。井伊は、井伊でなくなる」
その声には、誇りを捨てきれぬ苦悩がにじんでいた。
源次は静かに首を振る。
「井伊は残ります。名も、血も、土地も。誇りを守り抜くことと、家を滅ぼすことは違う。……私はそう信じます」
直虎の胸が熱くなった。(……これだ……これこそが、我らの生きる道)
消えかけていた光が、再び燃え上がるのを感じた。
評定の間は再び張り詰めていた。だが、それはもはや絶望の色ではない。
希望と、未来をめぐる新たな対立の空気であった。
――井伊家の運命を変える「第三の道」が、いま示されたのだ。