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第74節『評定』

第74節『評定』

 武田の使者が去って数日、猶予は刻一刻と失われていた。

 井伊谷城の評定の間には、重苦しい空気が満ちていた。障子越しの光は弱く、夏の曇天を映したかのように薄暗かった。

 座敷に集まった家臣たちは皆、沈鬱な顔で座し、誰一人として口を開こうとしなかった。答えを出さねば滅びる。だが、どの答えを選んでも地獄しかない。その絶望が、彼らの口を重く閉ざさせていた。


 重苦しい沈黙を裂いたのは、すり足の音。

 「御当主、井伊直虎様、ご入座」

 老臣が声を張り上げる。直虎は静かに座敷に入った。

 その顔は青ざめ、目の下には深い隈が浮かんでいる。彼女は知っていた。今この評定で下される決断が、井伊家の未来を、そして源次が命がけで進める調略の成否をも左右することを。

 その瞳だけは領主としての光を宿し、家臣たちを一人ひとり射抜くように見渡した。

 やがて、彼女は低く、しかしはっきりと声を発した。

 「……皆に問う。この井伊家、今、進むべき道はどこにある。武田に降るか、今川に殉ずるか、あるいは……玉砕して果てるか。忌憚なき意見を、聞かせよ」

 その言葉が落ちた瞬間, 広間の空気が凍りついた。

 「降伏」「忠義」「玉砕」――どの選択も地獄でしかない。


 やがて、その沈黙を破ったのは中野直之だった。

 「……申し上げます」

 直之は膝を進め、両手を畳に突いた。その顔には、苦渋に満ちてはいるが迷いはなかった。

 「御当主。もはや、我らに残された道は一つ。――武田に降り、その傘下にて家名を保つことこそ、唯一の活路と存じます!」

 広間にざわめきが広がった。「降伏」という最も聞きたくない言葉。だが同時に、それは誰もが心の奥底で考えていた現実だった。

 直之は続けた。

 「今川はすでに滅びゆく亡霊にございます。忠義を尽くしたところで、井伊は共に沈むのみ。ならば……生き残る道を選ぶべきにございましょう」

 声は揺れていなかった。その瞳には、井伊の未来を背負おうとする強い覚悟が宿っていた。

 「確かに、屈辱はございましょう。されど、家を残さねば意味がない。武田に降れば、井伊の名は生きる。子らに、未来を託すことができるのです」

 沈黙。家老たちは顔を見合わせ、若手は歯を食いしばった。

 直虎は動かず、ただ静かに彼の言葉を聞いていた。


 だが――次の瞬間、若手の一人が立ち上がった。

 「中野殿! 我らはただ滅びを待つためにいるのではありませぬ! かの源次殿が佐久間川で見せたように、知恵と勇気さえあれば活路は開けるはず! 我らは井伊の武士! 死ぬとしても、ただ座して死を待つのではなく、一矢報いてこそ誉れ!」

 続けざま、別の若手も声を張り上げる。

 「いまだ今川は滅んではおりませぬ! 忠義を尽くせば、必ずや井伊の義は後世に伝わりましょう! 戦わずして降るなど、末代までの恥!」

 「黙れ!」

 直之の怒声が響いた。その顔は激情に染まっていた。

 「その源次とやらが元凶よ! 奴が奇策など弄したせいで、家中には『まだ戦える』という甘い夢が蔓延した! 策もなく戦うだと? 兵は百にも満たぬ! 武田の数万に挑むなど、犬死もよいところ!」

 若手が噛みつく。

 「ならば屈辱に甘んじて、女子供まで武田の人質に差し出すのか! それが井伊の誇りか!」

 「誇りで腹は膨れぬ! 名分で子らは守れぬ!」

 「臆病者!」「青二才が!」

 怒号が飛び交い、評定の間は修羅場と化した。

 老臣たちは狼狽し、互いに目を伏せる。誰もが正しい答えを持たず、ただ感情の奔流に呑み込まれていった。

 「静まれ! 静まれと申す!」

 直虎が何度も声を張り上げる。だが、その声は誰の耳にも届かなかった。

 彼女の存在は、もはやこの場を制御できぬほど小さなものになっていた。


 直虎は、ただそれを見つめるしかなかった。

 (これが……私の率いる家臣たちの姿か……)

 瞳が潤み、胸が締め付けられる。己の叫びが誰にも届かぬ。井伊家は、もはや内部から崩れかけている。

 広間の熱気は、怒りと絶望の入り混じった混沌だった。

 やがて直虎は、声なき声で呟いた。

 「……万策、尽きたか」

 その小さな声は、誰にも届かなかった。


 評定は結論を見ぬまま砕け散り、ただ井伊家の分裂と絶望だけを残して終わった。

 未来を指し示す光は、もはやどこにもなかった。

 残されたのは、唯一――

 いまだ帰らぬ源次への、かすかな希望だけであった。

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