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第73節『迫る危機』

第73節『迫る危機』


 北の砦で新太が武田家への離反を決意した、まさにその頃。井伊谷城の評定の間には、重苦しい空気が満ちていた。

 夏の湿り気が石壁にこもり、蝋燭の炎がわずかに揺らいでいる。

 畳に並んだ家臣たちは誰も口を開こうとせず、ただ前方に座る一人の男に視線を注いでいた。

 その男――武田家の使者は、堂々と胸を張り、鼻先で井伊の家臣たちを見下していた。国境では日々小競り合いが続いているというのに、こうして使者を送り込んでくること自体が、力なき小国を侮りきった、大国ならではの傲慢さの現れだった。

 甲州訛りの強い声が、広間に鋭く響いた。

 「御館様よりの御意に候。井伊家には、今度の戦のため、兵糧三百石を差し出されよ」

 ざわめきが走った。井伊谷全体で一年を賄う米の半ばに迫る量である。ただでさえ戦の度に供出を強いられ、倉は底を突きかけているというのに――。

 「それと……忠誠の証として、家中の若き子弟より三名、人質として甲府へ差し出されたい」

 その一言に、中野直之の拳が震えた。

 (……子を差し出せと? 領民を飢えさせるだけでは飽き足らず、未来まで奪うか)

 口の中に鉄の味が広がるほど、強く歯を噛み締めた。だが、反論の言葉は喉から先へ出てこない。

 これは交渉ではない。脅迫だ。下手に逆らえば、「井伊は背いた」との口実を与え、村々が焼き払われるだけだ。数万を動員できる甲斐の大軍に対し、井伊の兵力はせいぜい数百。勝負にすらならぬ。

 「いかがなされるか」

 使者の声音には余裕があった。

 直虎は黙したまま座していた。細い指先が袖の中で震えている。

 評定の間が、息も詰まるような沈黙に支配される。

 やがて、直虎は絞り出すように声を発した。

 「……ご猶予を、いただきたい。家臣たちと、よう評議し、後日改めてご返答いたす」

 それは、即答を避けるための苦し紛れの言葉だった。

 使者は、それを聞くとにやりと口端を歪めた。

 「ふん、評議か。良かろう。だが、我らがいつまでも待つと思うなよ。良き返答を待っておるぞ」

 その言葉には、「どうせろくな返事はできまい」という侮りが透けて見えた。使者は深々と頭を下げることもなく、踵を返して去っていった。

 広間の空気が一層重く沈む。

 残された家臣たちは皆うつむき、誰一人口を開こうとしなかった。

 (猶予はいくばくもない……我らは、崖っぷちに立たされたか)

 直之の胸中には、どうしようもない無力感が広がっていった。


 武田の使者が去ったのも束の間、今度は東より今川の使者が姿を現した。

 その男はかつての今川全盛を思わせる衣服に身を包んでいたが、どこか色褪せ、威光だけが虚しく光を放っていた。

 「井伊殿。御館様は再起のために兵を挙げられる。ついては井伊家も相応の軍資金を差し出されよ」

 直虎は、絞り出すように答えた。「……少しばかりなら、差し出すことはできましょう」

 それは、苦渋の妥協だった。

 使者は鼻で笑うと、尊大な口調で言い放った。

 「ふん。少しばかり、か。まあ、よかろう。御館様には『井伊は変わらぬ忠義を示した』と伝えておく」

 その言葉は、感謝ではなく、まるで施しを許すかのような響きだった。

 使者は満足げに頷き、威厳を保つように去っていった。だが残された者たちの胸には、ただ深い疲労だけが残った。


 その夜。

 直虎は誰もいない自室にて、膝を抱えていた。

 昼間、あれほど毅然と振る舞ったはずの身体が、小刻みに震えている。

 「……もう、もたぬ」

 誰にも聞かせられぬ弱音が、唇から零れ落ちた。

 北からは武田、東からは今川。家中では、源次を巡る争いが燻っている。四方八方、すべてが敵に見えた。

 「私は……領主として、皆を導けているのか……?」

 問いは宙に溶け、答えは返らない。

 張り詰めていた糸が切れたように、直虎はその場に崩れ落ちた。

 やがて、懐から小さな木札を取り出す。それは、源次が岡崎へ発つ前に「御守りに」と、はにかみながら差し出したものだった。

 その不器用な忠義を思い出し、直虎の胸に熱いものが込み上げる。

 「源次……そなたは今、どこで何をしておる……」

 木札を握りしめる手が震える。それは助けを求める弱さではない。自らが信じ、井伊の未来を賭けて送り出した唯一の懐刀の帰還こそが、反撃の狼煙となる。その時まで、ただ一人でこの絶望的な状況を耐え抜いてみせるという、領主としての孤独な強さの現れだった。


 蝋燭の炎が揺らめき、影が壁を這う。

 夜は深まり、井伊谷を覆う重圧はますます濃くなっていく。

 その重圧を破る者――

 彼らの唯一の希望は、まだ戻らぬ源次ただ一人であった。

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