表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
72/300

第72節『武田への失望』

第72節『武田への失望』

 夜が明けた。

 薄曇りの空の下、野営の一角に置かれた仮小屋の中で、新太はただ座していた。

 膝に置いた掌には、昨夜から片時も離さず握りしめている、傷のない木彫りの鷹。粗削りの羽の感触を指先でなぞるたび、胸の奥が締めつけられる。

 目は赤く腫れ、涙の跡は乾ききっていない。

 あの密書を読んだ夜、堰を切ったように泣き崩れ、嗚咽を抑えきれなかった。戦場で流した血の数よりも、はるかに重い涙だった。

 「……俺は、何のために槍を握ればいい」

 独りごちる声はかすれていた。

 これまで自分を突き動かしてきたのは、「井伊への憎しみ」という燃えるような怒りだった。母を辱めた宿敵を討つことこそ、己の存在理由だと信じて疑わなかった。

 だが今、その憎しみの根は揺らぎ、枯れ果てようとしている。「母が真に憎んだのは、井伊にあらず」。その一文が、彼の信念の全てを破壊したのだ。

 (では……俺は、何者だ?)

 胸の中は空っぽだった。長年積み上げてきたものが崩れ去り、ただ虚無だけが残っている。


 そのとき。

 「新太殿!」

 荒々しく幕が跳ね上げられた。入ってきたのは、軍装に身を固めた上官だった。数名の兵を従え、傲然と立っている。

 「……何用にござるか」

 新太は低く問いかけた。

 上官は薄笑いを浮かべ、紙片をひらひらと掲げた。

 「御館様より直々の御下命だ。本日中に、井伊領奥の峯田村を焼き払え、とのこと」

 その言葉を聞いた瞬間、新太の胸に冷たいものが走った。

 「……峯田村だと? あそこは、戦支度もしておらぬ百姓の村……」

 「そうだ。それを焼き討ちにせよ。武威を示すには絶好の的よ」

 上官の声には一片の迷いもなかった。

 新太はゆっくりと立ち上がり、ぎり、と歯を食いしばった。

 「……それは、武士の戦いではありませぬ」

 静かな言葉だった。だが、その一語一語には、烈火のような怒りが込められていた。

 上官は鼻で笑った。

 「武士? 百姓? 笑わせるな。戦に身分の区別などあるものか。御館様の命令に従うのが武士の務めよ」

 「……」「できぬと申すか? ならば、それはすなわち御館様への謀反と見なすが……よいか?」

 その言葉は、刃よりも鋭く新太の胸を抉った。

 武田の兵である以上、主命は絶対。逆らえば裏切り者の汚名を着せられ、討たれるのは自分だけではなく、従う部下たち全てだ。上官はそれを承知で、あえて突きつけているのだ。新太を潰すために。

 やがて上官は嘲笑を残して去っていった。


 「若!」

 ほどなくして、側近の兵たちが駆け寄ってきた。皆、一様に憤りを隠せず、顔を真っ赤にしている。

 「なんたる非道! あんな命令に従う必要はありませぬ!」「そうです! 峯田村には女子どもしかおりませぬ。我らは、若の命令にのみ従います!」

 口々に叫ぶその声に、新太は目を閉じた。

 心の奥底から、熱いものが込み上げてくる。

 (……この者たちは、俺を信じてくれている。武田ではなく、俺という男に従っているのだ)

 胸の虚無が、わずかに満たされていくのを感じた。

 静かに目を開いた新太は、部下たちを見渡した。その瞳には、決意の光が宿っていた。

 「……俺は、お前たちを犬死にさせるつもりはない」

 言葉は低く、しかし確かだった。部下たちは息を呑み、じっと主を見つめる。

 新太は懐から、傷のない木彫りの鷹を取り出した。その小さな像を握りしめると、不思議な力が心に宿る。

 「峯田村へは行かぬ」

 短い言葉が、空気を震わせた。

 「俺は、俺の戦をする。……まず、一本松へ行く」

 部下たちは驚愕に目を見開いたが、すぐに理解した。

 彼らの主は、もはや武田のために戦うのではない。己の真実と、己を信じてくれる仲間のために戦うのだと。

 やがて誰からともなく、静かな頷きが広がった。それは忠誠の誓いだった。


 外では、曇天の隙間から一筋の光が差し込んでいた。

 新太の歩む道は、もはや決して戻れぬ道。

 だがその胸には、初めて「自ら選んだ戦」の炎が灯っていた。

 (母上……俺は、真実を求める)

 彼は木彫りの鷹を強く握りしめ、静かに天を仰いだ。

 ――その決断が、彼の運命を大きく変えていくことを、まだ誰も知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ