第72節『武田への失望』
第72節『武田への失望』
夜が明けた。
薄曇りの空の下、野営の一角に置かれた仮小屋の中で、新太はただ座していた。
膝に置いた掌には、昨夜から片時も離さず握りしめている、傷のない木彫りの鷹。粗削りの羽の感触を指先でなぞるたび、胸の奥が締めつけられる。
目は赤く腫れ、涙の跡は乾ききっていない。
あの密書を読んだ夜、堰を切ったように泣き崩れ、嗚咽を抑えきれなかった。戦場で流した血の数よりも、はるかに重い涙だった。
「……俺は、何のために槍を握ればいい」
独りごちる声はかすれていた。
これまで自分を突き動かしてきたのは、「井伊への憎しみ」という燃えるような怒りだった。母を辱めた宿敵を討つことこそ、己の存在理由だと信じて疑わなかった。
だが今、その憎しみの根は揺らぎ、枯れ果てようとしている。「母が真に憎んだのは、井伊にあらず」。その一文が、彼の信念の全てを破壊したのだ。
(では……俺は、何者だ?)
胸の中は空っぽだった。長年積み上げてきたものが崩れ去り、ただ虚無だけが残っている。
そのとき。
「新太殿!」
荒々しく幕が跳ね上げられた。入ってきたのは、軍装に身を固めた上官だった。数名の兵を従え、傲然と立っている。
「……何用にござるか」
新太は低く問いかけた。
上官は薄笑いを浮かべ、紙片をひらひらと掲げた。
「御館様より直々の御下命だ。本日中に、井伊領奥の峯田村を焼き払え、とのこと」
その言葉を聞いた瞬間、新太の胸に冷たいものが走った。
「……峯田村だと? あそこは、戦支度もしておらぬ百姓の村……」
「そうだ。それを焼き討ちにせよ。武威を示すには絶好の的よ」
上官の声には一片の迷いもなかった。
新太はゆっくりと立ち上がり、ぎり、と歯を食いしばった。
「……それは、武士の戦いではありませぬ」
静かな言葉だった。だが、その一語一語には、烈火のような怒りが込められていた。
上官は鼻で笑った。
「武士? 百姓? 笑わせるな。戦に身分の区別などあるものか。御館様の命令に従うのが武士の務めよ」
「……」「できぬと申すか? ならば、それはすなわち御館様への謀反と見なすが……よいか?」
その言葉は、刃よりも鋭く新太の胸を抉った。
武田の兵である以上、主命は絶対。逆らえば裏切り者の汚名を着せられ、討たれるのは自分だけではなく、従う部下たち全てだ。上官はそれを承知で、あえて突きつけているのだ。新太を潰すために。
やがて上官は嘲笑を残して去っていった。
「若!」
ほどなくして、側近の兵たちが駆け寄ってきた。皆、一様に憤りを隠せず、顔を真っ赤にしている。
「なんたる非道! あんな命令に従う必要はありませぬ!」「そうです! 峯田村には女子どもしかおりませぬ。我らは、若の命令にのみ従います!」
口々に叫ぶその声に、新太は目を閉じた。
心の奥底から、熱いものが込み上げてくる。
(……この者たちは、俺を信じてくれている。武田ではなく、俺という男に従っているのだ)
胸の虚無が、わずかに満たされていくのを感じた。
静かに目を開いた新太は、部下たちを見渡した。その瞳には、決意の光が宿っていた。
「……俺は、お前たちを犬死にさせるつもりはない」
言葉は低く、しかし確かだった。部下たちは息を呑み、じっと主を見つめる。
新太は懐から、傷のない木彫りの鷹を取り出した。その小さな像を握りしめると、不思議な力が心に宿る。
「峯田村へは行かぬ」
短い言葉が、空気を震わせた。
「俺は、俺の戦をする。……まず、一本松へ行く」
部下たちは驚愕に目を見開いたが、すぐに理解した。
彼らの主は、もはや武田のために戦うのではない。己の真実と、己を信じてくれる仲間のために戦うのだと。
やがて誰からともなく、静かな頷きが広がった。それは忠誠の誓いだった。
外では、曇天の隙間から一筋の光が差し込んでいた。
新太の歩む道は、もはや決して戻れぬ道。
だがその胸には、初めて「自ら選んだ戦」の炎が灯っていた。
(母上……俺は、真実を求める)
彼は木彫りの鷹を強く握りしめ、静かに天を仰いだ。
――その決断が、彼の運命を大きく変えていくことを、まだ誰も知らなかった。