第71節『密書の効果』
第71節『密書の効果』
北の砦は、戦支度に追われながらも、一見すると平穏を保っていた。
兵たちは槍を磨き、弓を張り直し、甲冑を整えている。
その中心で、新太は武将としての務めを果たしていた。表情は冷徹、声には一分の揺らぎもない。命令を下す姿は、誰もが畏怖する「猛将」としての新太そのものだった。
だが、彼の胸中は穏やかではなかった。
(あの男……源次)
暗闇に浮かぶ、あの青年の姿が繰り返し脳裏に蘇る。なぜ、あの男は自分の過去に触れるような言葉を口にしたのか。なぜ、自分を挑発するような眼差しを向けたのか。
「……ふん。下らぬことを考えている暇はない」
新太は自らに言い聞かせ、胸のざわめきを押し込めた。武田から命じられた任務は無謀極まりない。だが、背を向ければただの臆病者。進めば死地――そんな道を歩むしかないのが、武将の宿命だった。
その時だった。
「若!」
部屋の戸口から、息を弾ませた部下が駆け込んでくる。小さな布袋を両手で抱え、神妙な面持ちで差し出した。
「……町人を装った者が、番兵の目をすり抜けて、これを“若宛に”と……」
新太の眉がぴくりと動いた。砦の中にまで潜り込むなど尋常ではない。しかも、自分宛とは――。
「……怪しいものだな。毒でも仕込まれているやもしれぬ」
冷ややかに言い放ちながらも、新太は布袋を受け取った。重量は軽い。だが、確かに中に何かがある。
「下がれ」
部下を一瞥するだけで追い払う。戸が閉まると同時に、部屋には再び静寂が訪れた。
新太は、机の上に布袋を置いた。その前に座り、しばし睨みつける。まるで、それだけで中身を見抜こうとするかのように。
やがて、ゆっくりと袋の紐を解いた。
中から現れたのは、一枚の書状。そして、古びた木彫りの鷹。
新太の呼吸が止まった。
木彫りの鷹――。それを見た瞬間、胸の奥に封じていた記憶の蓋が、激しく軋んだ。
(……なぜ、これがここに……?)
彼は震える指で書状を取り上げた。墨跡は新しい。
――母君、伊和殿が真に憎んだのは、井伊にあらず。
「……な、に……?」
全身に電流が走る。伊和。その名は、彼と母だけが知る、秘密の名前。誰も、決して口にするはずのない名。
彼は息を荒げながら最後まで読み進めた。
――真実を知りたければ、次の満月の夜、一本松にて待つ。
新太の手が震え、書状が音を立てて机に落ちた。
「……ありえぬ……!」
声が漏れる。だが、彼の視線はただ一点――木彫りの鷹に釘付けだった。
新太は、吸い寄せられるようにそれを掴み取った。
その瞬間、記憶の奔流が押し寄せた。
――甲斐の山里で暮らしていた、幼い日の自分。
貧しい小屋の中。母・伊和が、小刀を握り、自分にそっくりな鷹の木彫りを削っていた。
「新太、見てごらん」
笑みを浮かべながら、その鷹を差し出す。
「鷹は強く、誰よりも高く飛ぶ。お前も、鷹のように強くあれ」
「かあさま、これ……」
幼い声で言いかけ、手を伸ばした拍子に、小刀が木に傷をつけてしまった。小さな線のような傷。
「……あっ」
泣きそうになる自分を、母は微笑みながら抱き寄せた。
「いいんだよ。これは新太の証。……母さんは嬉しい」
以来、その傷のついた鷹は、彼の唯一の形見であり、肌身離さず持ち歩く宝物だった。
現実へ戻った新太は、今、手の中にある鷹を凝視した。
寸分違わぬ形。同じ木目。同じ母の温もり。
だが――翼の裏に、あの傷がない。
「……傷が……ない……?」
声が震える。これは、俺の知っている鷹じゃない。だが、間違いなく母が彫ったものだ。
(なぜだ? なぜ、傷がつく前の鷹が、井伊の手にある……?)
まさか。母さんは、同じものを二つ彫っていたというのか……? 一つは俺に。そしてもう一つを、井伊に……?
母は、井伊を憎んでいた。そう信じて生きてきた。
だが、密書には――「井伊にあらず」と書かれていた。
胸が裂けるような痛み。今まで支えにしてきた大義が、音を立てて崩れていく。
「嘘だ……嘘だ! 母は……憎んでいたはずだ! そうでなければ……俺のこれまでの戦は、一体……!」
声が嗄れる。拳を震わせ、机を叩く。だが、傷のない木彫りの鷹は静かに、ただそこにあった。母の祈りを宿したまま。
「……かあさま……」
嗚咽が漏れた。これまで鉄の鎧で覆い隠してきた心の奥底から、幼子のような声が溢れ出る。
母の最期の言葉が蘇る。「……いつか……真実を……」
あれは、憎しみを託した言葉ではなかったのか。自分は、母の真意を取り違えていたのではないか。
新太は頭を抱え、膝をついた。「……俺は……何を……」
長く保ってきた誇りが、信念が、崩れ去っていく。涙が、抑えきれず頬を伝う。
やがて、視線が机に落ちた書状へと戻る。
震える手でそれを拾い上げ、最後の一文に目を留める。
――真実を知りたければ、一本松にて待つ。
差出人の名はない。だが、あの夜の男の姿が、鮮やかに脳裏に浮かぶ。
(……源次……あの男は……母の真実を知っているのか……?)
胸の奥から湧き上がるのは、憎しみでも怒りでもない。ただ――どうしようもない渇望。
真実を知りたい。母の想いを、最後まで知りたい。
木彫りの鷹を握りしめたまま、新太は崩れ落ちた。部屋には彼の嗚咽だけが響いていた。
猛将・新太。誰もが恐れるその男は、今、ただ一人、子供のように泣いていた。
「……かあさま……」
だが、その涙の先に待つのは――一本松。
そこへ向かうのか、向かわぬのか。彼の運命は、密書と木彫りの鷹によって、大きく揺らぎ始めていた。