第701節『猿の誤算』
第701節『猿の誤算』
地平を埋め尽くす黄金の波が、小牧山の麓でぴたりと止まった。
羽柴秀吉率いる十万の大軍である。その威容は、まさに天下人の行軍にふさわしかった。金糸銀糸を織り込んだ旗指物が風に躍り、兵たちの鎧は磨き上げられ、太陽を反射して眩い輝きを放っている。
本来ならば、秀吉は扇を掲げ高らかに笑うはずだった。
「見よ、三河の田舎侍ども。これが天下の軍勢ぞ」と。
だが、その笑みは形を作ったまま凍りついた。
彼の前にそびえるのは、粗末な山城などではない。
巨大な土の怪物だった。
石垣ひとつない赤土の斜面が、幾重にも複雑にうねり、まるで生きた肉壁のように山を覆っている。美しさは欠片もなく、ただ近づく者を飲み込み、すり潰す機能だけが剥き出しになった暴力の塊。
「……なんだ、あれは」
秀吉の声が震えた。
「城か? いや、土塊にすぎぬはず……なぜ、これほどまでに気味が悪い」
彼の本能が警鐘を鳴らしていた。
傍らに控えた黒田官兵衛が、蒼白な面持ちで進み出た。
「殿下。あれに、手を出してはなりませぬ」
声は低く、震えに似た早口。
「ご覧あれ。あの土塁と堀。一見乱雑ですが、全てが計算されております。どこから攻めても必ず側面を晒し、その行き着く先には……」
官兵衛は山腹の空間を指差した。
「――死の罠があります。踏み込めば、四方からの銃撃で、一兵残らず灰燼となりましょう」
「灰燼、だと……?」
「数で押し潰せば――」と秀吉が言いかけたところへ、官兵衛が遮る。
「数が多ければ多いほど、死骸が積み上がるだけにございます!」
秀吉は舌打ちし、采配を振った。
「……試しじゃ。先鋒、かかれ!」
鬨の声とともに数千が突撃。だが――
徳川軍は姿を見せなかった。ただ、土塁の隙間より乾いた銃声だけが規則的に響く。
パン、パン、パン――。
硝煙が漂うたび、斜面を登っていた兵たちが、見えざる刃に薙ぎ払われるように崩れ落ちる。叫ぶ暇もなく、敵影を見ることもなく、ただ一方的に「処理」されていった。
家康が準備した十字砲火のシステムは、感情のない処刑機械のごとく、正確に命を刈り取っていく。
「退け! ――退かせろ!」
秀吉が叫ぶ頃には、斜面は死体で埋まり、生き残った者も恐慌状態で逃げ惑った。その背をも銃撃が追った。
幕舎に戻るや、秀吉は床几を蹴り飛ばす。
「おのれ家康! あのような卑怯な真似を! 武士の誇りはないのか!」
怒号の底には焦りがあった。力攻めは通じぬ。ならば――どうするか。
(出てこぬなら、引きずり出してくれよう)
翌日より、小牧山前に奇妙な光景が広がる。派手な櫓が立ち、楽人が笛太鼓を打ち鳴らし、遊女が舞う。さらに、
「やーい! 三河の腰抜け!」
「家康の金玉、縮み上がって野鼠より小さいわ!」
挑発。侮辱。嘲笑。
徳川兵たちは顔を真紅に染め、本多忠勝などは槍を強く握り、
「……あの下郎ども、直ちに黙らせてくれる」
と低く唸った。
だが――山頂本陣だけは、深海のように静まり返っていた。
家康は茶を啜り、微動だにせず。ただただ喧騒を見下ろす。
(……必死だな、秀吉)
「殿。良き余興にございますな。金が惜しくはあるまいが」
「うむ。向こうが勝手に磨耗するならば、これほど楽なこともない」
家康は扇で膝を叩き、城兵に厳命する。
「――見るな。聞くな。ただ、笑っておれ」
挑発への答えは、完全なる「無視」だった。
一矢も返さず、土塁の中で静かに息を潜める。
その沈黙は、日を追うごとに秀吉の心を蝕んでいく。
「なぜだ……なぜ出てこぬ。なぜ怒らぬ!」
家康は、挑発に乗る律儀な男ではなく――
感情を捨て、ただ機を待つ、何か異質な存在となっていた。
(……あれは、本当に家康なのか?信長様の前で見たあの家康とは思えん)
秀吉の背に冷汗が伝う。
嘲笑っているつもりだったが――もしかすると、あちらがこちらの方を嘲笑ってるのではないか。
そう思った瞬間、勝機は揺らぎ始めていた。
小牧山は、沈黙という名の圧力で、十万の軍勢をじわりと押し潰していった。




