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第70節『手紙』

第70節『手紙』

 山寺の書庫で「伊和」の名を発見した源次は、井伊谷の隠れ家に戻っていた。

 夜気が忍び込み、紙灯明の炎が小さく揺れる。

 彼は机代わりの板を前にして、過去帳から写し取った文言を見つめていた。

 墨痕鮮やかに残るその文字――「伊和」。

 新太の母の名であり、彼の心を揺さぶる唯一の鍵。だが、源次は筆を置いたまま、眉間に深い皺を刻む。

 「……ただ『母の名は伊和だ』と書いたところで、果たして信じるか?」

 彼は頭を振った。あの新太という男は、剛毅で疑り深い。敵である自分のもとから、名も知らぬ者によって急に「母の名」を告げられても――それを計略と見抜くに決まっている。

 (言葉だけでは足りない。俺が知り得た情報を裏付ける“証”が必要だ。しかも……彼と彼の母、二人だけにしか分からぬ、個人的な証拠でなければ意味がない)

 源次は指先で机を叩き、思索を深めた。

 (母・伊和が、息子に残したもの……それがあれば、俺からの密書は“毒”ではなく“救い”として届くはずだ)


 彼の胸中に、ひとつの言葉がよぎる。

 ――縁者。

 過去帳に小さく記されていた一文字。それは伊和が井伊谷を去る直前まで身を寄せていた、ある村を指しているのではないか。

 源次は立ち上がった。夜が明けるのを待たずに、彼は再び「佐吉」としての衣をまとい、山里へと向かう決意を固めた。


 山間の道は細く、朝露に濡れた草の香りが鼻をかすめる。

 井伊領の外れにあるその村は、戦の表舞台から取り残されたようにひっそりとしていた。

 藁葺きの家々が並び、老いた者ばかりが目につく。

 源次は腰籠を提げ、薬売りの口上を述べながら家々を回った。しかし、伊和の名を口にしても、大半は「知らぬ」と首を振るばかりだった。

 諦めかけたその時――。

 「……伊和のことかい」

 かすれた声が背後から届いた。振り返ると、背を丸めた老婆が立っていた。

 その目は白濁していたが、奥には強い光が宿っている。

 「婆さま、ご存じで?」

 「知っておるとも。あの人は……わしの幼なじみじゃったからな」

 老婆は源次を自宅へ招き入れた。囲炉裏の火が弱々しく燃える中、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。

 ――伊和は、井伊家の不興を買い、居場所を失った。

 ――追放される前に、この村にしばらく身を寄せていた。

 ――そして甲斐へ向かう際、ただ一つの物を「いつか息子が訪ねてきたら渡してほしい」と言い残し、預けていった。


 「婆さま、その時、伊和殿は井伊家を恨んでおられましたか?」

 源次が問うと、老婆は静かに首を振った。

 「いいや……。あの子は井伊家を恨んではおらんかった。むしろ、己を汚し、腹の子の父となった甲斐の男をこそ、心の底から憎んでおったよ」

 「甲斐の男……信玄公を……」

 「うむ。『あの方を頼るしか、この子を生かす道はない。されど、その男に頭を下げねばならぬことこそ、何より悔しい』……そう言って、涙をこぼしておった」


 老婆は頷き、押入れの奥から布包みを取り出した。

 古びてはいるが、丁寧に包まれている。布を解いた瞬間、源次は息を呑んだ。

 掌ほどの大きさの木彫り――。形はぎこちないが、翼を広げた一羽の鷹がそこにあった。

 「これは……」

 「伊和はな、いつも夜なべをして削っておったよ。『腹の子が鷹のように強く、自由に生きられるように』ってな」

 老婆の言葉に、源次は胸を打たれた。

 まさに、これ以上ない「証」。言葉ではなく、母が確かに息子に残した“思い”。

 源次は深く頭を下げた。「……大切なお役目を、俺が代わりに果たさせてもらいます」


 隠れ家に戻ると、源次は木彫りの鷹を掌に載せ、じっと見つめた。

 粗削りな羽、ぎこちない脚。だが、その一刀一刀には、母の祈りがこもっていた。

 (これならば、新太も信じる。いや……信じざるを得ない)

 彼は筆を取り、墨を磨った。密書にしたためたのは、短く、しかし重い言葉だった。

 ――

 母君、伊和殿が真に憎んだのは、井伊にあらず。

 真実を知りたければ、次の満月の夜、

 北の砦と井伊領の境にある一本松にて待つ。

 ――

 その書状に、木彫りの鷹を添える。これをどうやって新太の元へ届けるか。


 夜。隠れ家に重吉の声が届いた。

 源次は彼に事の次第を話し、意見を求めた。

 「……密使を使うか?」

 重吉は腕を組み、唸った。

 「それも手じゃが……途中で奪われればそれまでだ。それに、敵将が差出人も分からぬ書状を素直に信じるとも思えん」

 源次は頷いた。

 「だよな。……やはり、俺が行くしかない」

 「馬鹿か! またあの砦に忍び込む気か!」

 「いや」と源次は首を振る。「砦には入らない。この手紙を、俺自身の手で奴の元へ届ける。そして、一本松で待つ。直虎様にもそう誓ったからな」

 

 彼は布袋に書状と鷹を収め、深く息を吐いた。

 重吉が手配したのは、源次が砦の近くまで潜入するための、道案内と見張りを務める腕利きの忍び働きだった。

 「……必ず本人の目に触れるようにしろ。だが、深追いはするな。目的は、奴を一本松へ誘い出すことだけだ」

 源次は頷き、忍び働きと共に闇の中へと消えていった。


 残された重吉は、夜空を仰いだ。

 雲間から覗く月は、鋭い刃のように冴え渡っている。

 (矢は放った。あとは、あの若造が無事に戻るのを祈るだけか……)

 胸の内に張り詰めた弦の響きが、静かに残響していた。

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