第7節『生存戦略会議』
第7節『生存戦略会議』
炎の匂いが、まだ鼻腔を刺していた。
夜風に乗って、焦げた木材と肉の臭気が重く漂ってくる。村はもはや黒い炭の塊に過ぎず、時おり柱の一部が崩れ落ちては、ぱちりと火花を散らして消えていった。
丘の上。源次は、焼け残った鍬を握りしめていた。
握る手には豆が潰れ、血が滲んでいる。それでも彼は、止めることなく土を掘り続けた。
そこに横たわるのは、冷たくなった老漁師の亡骸だった。
血に濡れ、衣は破れ、顔には戦火の煤がこびりついている。それでも、彼の表情は穏やかだった。まるで「お前は生きろ」と最後に告げた時のまま、その顔に微笑の余韻が残っているように見えた。
源次は、震える息を吐いた。
土の匂いが胸に迫り、涙がまた込み上げそうになる。しかし、彼は歯を食いしばってこらえた。
――泣くのは簡単だ。
――だが、泣くだけでこの人の死が報われるわけじゃない。
額から汗が落ちる。掘り上げた土を払いのけ、ようやく小さな穴が形を成した。
その穴に、そっと老漁師の体を横たえた。衣を直し、胸の上で両手を組ませる。
「……爺さん。ありがとう」
声は掠れていた。
彼はその上に土を戻し、石を探して墓標とした。拳より大きな石を運び、墓の上に置く。
それは粗末な墓だった。けれど、源次にとってはこの世で最も大切な墓標だった。
膝をつき、掌を合わせる。
「爺さん、見ていてくれ。俺は生きる。ただ生きるだけじゃない。この理不尽な時代で、何かを成し遂げてみせる」
言葉は静かだった。だが、そこには揺るぎのない力があった。
――俺は、もう傍観者じゃない。
――この『源次』の人生を生き抜くんだ。
◆
丘から見下ろす村は、まだ赤く燻っていた。
数時間前まで自分が暮らしていた村。笑い声や、潮風に混じる魚の匂いがあった場所。
今は瓦礫と化し、死体と灰の山に過ぎない。
源次は、拳を握った。
感情が胸を焼く――だが、その熱はやがて形を変えていく。
「……さて」
呟いた声は、どこか冷ややかだった。
涙で濡れていた瞳が、次第に研ぎ澄まされた刃のような光を帯びていく。
「生き残るには、どうするか……」
その瞬間、心の中で何かが切り替わった。
悲しみの奔流に溺れていた思考が、急速に冷却され、理性と分析が前面に立つ。まるで経営会議の場にいるかのように、頭の中で戦略が組み立てられていく。
――俺は天涯孤独。
――失うものはない。あるのは、この身体と、頭の中の知識だけだ。
息を整えながら、源次は地図を思い浮かべた。
遠江、三河、甲斐、駿河。歴史研究家として覚えていた戦国地図が、脳裏にくっきりと浮かぶ。
「生き延びるなら……どこかの勢力に属するのが一番だ」
それは冷徹な結論だった。
個人の力など、この戦乱の世では塵に等しい。大名という怪物に庇護されなければ、すぐに食い潰される。
問題は、どこを選ぶか。
◆
「まずは……武田」
脳裏に浮かんだのは、甲斐の虎・武田信玄の旗。風林火山の文字が翻る。
「天下に最も近い存在。軍略、兵力、財政……どれを取っても一流だ。今日の略奪を見れば、その苛烈さは一目瞭然」
村を焼いた兵の姿がよぎる。鎧の赤、血に染まった槍。
「だが……非情すぎる。末端の兵は使い捨て。俺のような素性の知れない人間がのし上がれる隙はない。それに――爺さんを殺したのは、あいつらだ」
低く唸るように言葉が漏れる。
感情と理性の両面から、武田は却下された。
◆
「次は……今川」
源次は目を細めた。
かつて海道一の弓取りと呼ばれた今川義元。だが、その後継は無能の烙印を押された氏真。
「没落寸前。武田と徳川に領地を食い荒らされている泥舟。義元が生きていれば選択肢になったかもしれないが……今は違う。乗れば共に沈むだけだ」
氏真の姿を思い浮かべる。和歌や蹴鞠に夢中な若き大名。その姿は戦国の荒波を越える器ではなかった。
「これもない」
◆
「最後に……徳川」
口にした瞬間、心臓が高鳴った。
三河岡崎を拠点にする小大名。武田に比べれば蟻のように小さい勢力。
だが――。
「この男は、最後に天下を取る。歴史がそれを証明している」
源次の目がぎらりと光った。
徳川家康。かつて自分が研究していたその名は、歴史の中で揺るぎなく輝いている。
「今はまだ小さい。だが……将来性は抜群だ」
言葉を吐きながら、心に熱が宿る。
だがすぐに冷静な思考が追いつく。
「問題は、どうやって徳川に潜り込むかだ」
現実は厳しい。いきなり岡崎城に出向き、「未来を知ってます」と言えるはずがない。
「ただの漁師です、と名乗っても、実績のない人間を信じるほど家康は甘くない」
唇を噛む。
「ならば……ワンクッションが必要だ」
脳内の地図を再び広げる。遠江の海岸線、山、街道。
「徳川に仕えるにしても、何らかの実績と信頼が必要。どこかで『使える男』だという評判を得てから売り込むのが最善手……」
目を閉じる。想像の中で駒を動かす。
「徳川に近く、人手不足で、実力主義でのし上がれる場所……そんな都合のいい場所が、この遠江にあるだろうか?」
問いは宙に残った。
炎の残滓に照らされながら、源次の影は長く伸びる。
その瞳には、もはや迷いはなかった。
悲しみを燃料に、知性を武器に変えた新たな生存者の目が、暗い夜を射抜いていた。
――次の一手を探す、冷静な狩人のごとく。