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第699節『土と汗の城』

第699節『土と汗の城』

 尾張平野の北端、ぽつりと浮かぶようにそびえる小牧山は、春の陽光に照らされながら、まるで死んだ獣のように沈黙していた。

 かつて織田信長が美濃侵攻の拠点とした城はすでに崩れ、土塁は雑草に覆われ、堀は枯れ葉と泥に埋もれ、野生の獣が跋扈している。

 その荒れ果てた山へ、砂塵を巻き上げて到着した徳川先遣隊――榊原康政と酒井忠次率いる数千の兵たちは、目の前の光景に言葉を失った。

「……ここが、決戦の地だと?」

 一人の足軽が乾いた笑いを漏らす。背後には羽柴秀吉十万の大軍。対して自分たちは、廃城寸前の土塊一つ。石垣も天守も見当たらない。

「殿は我らを捨て駒にされるおつもりか」

「こんな場所で、どうやって防ぐというのだ」

 不安と失望が湿った空気のように隊列を包み、浜松を発った時の熱狂は急速に冷めつつあった。

 その空気を断ち切るように、榊原康政が馬上より声を張り上げた。

「者ども、嘆くのは早い! 殿が我らに命じられたのは、この山を守ることではない。この山を――『武器』へ変えることだ!」

 康政は懐から油紙に包まれた図面を取り出し、即席の陣机に広げる。酒井忠次が覗き込み、老練な目に驚愕を走らせた。

「……これは」

 描かれているのは城の設計図ではなかった。石垣も櫓もない。あるのは、蜘蛛の巣のように交差する空堀の線、幾重に重なる土塁の曲線、そして緻密に計算された射線のみ。

 それは城郭というより、巨大な猟具の構造図だった。

 図面の端に、家康の筆跡で、ただ一文。

『――美しさはいらぬ。敵を殺す効率だけを求めよ』

 その文字が、康政の胸奥を熱く揺さぶった。

「殿は飾らぬ土と泥で、秀吉の黄金の軍勢を呑み込めと仰せだ。……やるぞ、忠次殿」

 忠次はニヤリと笑い、古傷の走る腕をまくる。

「承知。久々に、土いじりといきますか」

 突貫工事が始まった。近隣の村から徴発した人足に加え、武士たちすら鍬を握り、泥にまみれて斜面と格闘する。

 不満を洩らしていた兵たちも、次第に目の前に現れる構造物へ戦慄と興奮を覚え始めていた。

 掘られているのは、ただの溝ではない。人の胸を越える深さの塹壕が斜面をジグザグに走り、敵を強制的に一点へ誘導する。

 そしてその先――「殺戮点」には、四方の土塁より鉄砲の射線が集中し、逃げ場はない。

「……見たか。あの堀」

 土を担ぐ若兵が呟く。

「あそこへ入り込んだら、上から撃たれ、横から槍で突かれる。……地獄だ」

「ああ。これは城じゃねえ。巨大な『蟻地獄』だ」

 第一次世界大戦の塹壕戦術やヴォーバン流築城術の思想が、戦国の土木技術と融け合い、山を異形の戦場へと変えていく。

 三日三晩の昼夜を問わぬ工事の末、小牧山の面影は消え失せ、土色の獣が身を伏せるような奇怪な要塞へと生まれ変わった。

 一見すれば粗末な土工作業だが、軍略を知る者が見れば、その起伏一つひとつに戦慄を覚えるだろう。

 康政は完成した本陣予定地に立ち、眼下の「殺戮の迷宮」を見下ろした。顔は泥と汗にまみれ、手には豆が潰れている。だが瞳には、これまでにない確信が宿っていた。

「……間に合った」

 彼は図面を懐に納め、西の空を睨む。

 地平線の彼方より、かすかな砂煙。秀吉の先鋒が近づいている。

 だが、もはや恐れはなかった。

「来るなら来い、羽柴秀吉。何万の兵を連れようと、この山こそ貴様の墓場よ」

 隣で忠次が煙管をふかす。

「殿の頭の中は、まこと常人の及ばぬところにございますな……。恐ろしきお方よ」

 風が吹き抜け、土埃が舞う。

 その匂いは、もはや春のものではない。鉄と血を含んだ、戦の匂いへと変わっていた。

 準備は整った。

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