第698節『大義名分』
第698節『大義名分』
大坂からの急報が浜松城の大手門を叩いた時、空は分厚い雲に覆われ、遠雷が低く唸っていた。
羽柴秀吉、出陣。その報せは、城内の澱んだ空気を一瞬にして吹き飛ばし、代わりにぴりつくような緊張と、抑えようのない高揚をもたらした。
ついに来たのだ。雌雄を決する時が。
評定の間には、すでに徳川の屋台骨を支える将たちが集結していた。
本多忠勝は、まるで獲物を前にした猛獣のように鼻息を荒くし、床几に座っていることさえもどかしげだ。榊原康政は冷静を装うが、その指先は扇の要を強く押し込んでいる。若き井伊直政は紅潮した顔で上座を見つめ、主君の到来を待ちわびていた。
彼らの視線の先、襖が静かに開く。
現れた家康の足取りは、いつになく重厚だった。普段の曖昧な笑みは一切なく、そこにあるのは――憤怒と、決意。
家康は上座に着くと、一同を見渡すことなく、懐から一通の書状を取り出し、畳に叩きつけた。
「――見たか、皆の者」
腹の底から響く低音だった。
かつて戦場を駆け巡った、あの亡き友の声色を、家康は意識の底から引きずり出していた。
「秀吉めが、ついに本性を現しおった。信雄殿を逆賊と罵り、討伐の兵を挙げたそうな」
広間にどよめきが走る。
家康は立ち上がり、激しく腕を振った。
「笑止千万! 逆賊はどちらだ! 織田家の威光を借り、主家をないがしろにし、天下を私物化せんとする秀吉こそが、天下の大泥棒ではないか!」
その言葉は、徳川家臣団が長年胸に溜め込んできた鬱屈そのものだった。
「我らは三河武士だ。利によって動く商売人ではない! 義によって立ち、信によって死ぬ。それが我らの誇りであったはずだ!」
脳裏に、二代目の笑顔がよぎる。不器用で、熱く、誰よりも「義」を重んじた男。
(……力を貸してくれ。あんたなら、きっとこう叫んだはずだ)
家康は、友の魂を己の肉体に憑依させるように、言葉に熱を込めた。
「亡き信長公の恩義を忘れたか! 今、その御遺児が奸臣の手によって窮地に立たされている。これを見捨てて、何が武士か! 何が徳川か!」
広間の空気が熱狂へと変わる。
忠勝が叫んだ。
「殿! そのお言葉、待ちわびておりましたぞ!」
巨漢の猛将は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら吠える。
「我らは、殿が『忍べ』と仰せなら泥水も啜りましょう。だが! 殿が『戦え』と仰せならば、地獄の底までお供いたします! それこそが、我らの生き様ゆえ!」
その叫びに呼応し、康政も、直政も、古参の将たちも一斉に平伏した。
「殿に続け!」「逆臣秀吉を討て!」「正義は我にあり!」
怒号の如き歓声が天井を震わせる。
家康はその熱狂を全身で受け止めながら、心の中で静かに息を吐いた。
(……これでいい)
沸き立つ興奮とは裏腹に、思考は氷のように冷えていた。
この「正義」も「大義」も、すべて自分が描いた筋書き。信雄を操り、秀吉を挑発し、戦わざるを得ない状況を作り出したのは、自分。
だが、この嘘がなければ、彼らは動けなかった。
巨大な秀吉軍に立ち向かう恐怖を押し潰すには、「自分たちこそ正しい」という確信が必要だ。
家康は扇を掲げ、高らかに宣言した。
「全軍、出陣! 目指すは尾張! 秀吉の野望を、この三河魂で打ち砕いてくれようぞ!」
「応!!」
鬨の声が爆発する。
その音の波の中で、家康はふと、自身の影を見た気がした。
それは源次としての自分か、亡き友の幻影か。
(……見ろ、友よ。俺のついた嘘が、彼らにとっての真実になった。この熱があれば、勝てる。……いや、歴史の通り勝たせてみせる)
扇を握りしめ、震える指先を隠した。
罪悪感も、迷いも、今は不要。
――ただ勝利だけが、この欺瞞を正当化する唯一の道なのだから。




