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第697節『秀吉の激怒と計算』

第697節『秀吉の激怒と計算』

 大坂城の奥、執務の間には、春の陽気とは裏腹に、氷が砕けるような鋭い音が響き渡った。

 羽柴秀吉の手の中で、金泥で飾られた扇が無惨にへし折られていた。

 目の前には、伊勢からの急報をもたらした忍びが、顔を伏せたまま震えている。

「――殺した、だと?」

 秀吉の声は低く、腹の底から絞り出されるようだった。

「あの馬鹿殿が……いずれ天下の柱石として使おうと思っていた津川たちを、自らの手で殺したと言うのか!」

 激昂のあまり、彼は手近にあった茶碗を床に叩きつけた。陶器の破片が飛び散り、茶の飛沫が畳を汚す。

 これは演技ではなかった。

 人心掌握の天才である秀吉にとって、人材こそ最も貴重な財産である。彼は津川義冬らの実務能力と現実的な判断力を高く評価しており、時間をかけて懐柔し、織田家を内側から平和的に解体するための要石かなめいしとするつもりだった。

 それが短絡的な猜疑心によって、一瞬にして無為な肉塊へと変えられた。

「愚か者めが! 己の手足を切り落として、どうやって立つつもりだ! 信長様の血を引きながら、その器量はあまりに小さすぎる!」

 秀吉は立ち上がり、部屋の中を荒々しく歩き回った。怒りは、失われた人材への未練と、予測不能な愚行に対する苛立ちがないまぜになったものだった。

 計画が狂った。織田家を軟着陸させるシナリオが、血で汚された。

 その荒れ狂う感情の嵐の中、ただ一人、静寂を保つ男がいた。軍師、黒田官兵衛である。

 彼は飛び散った茶碗の破片を一瞥もせず、ただじっと地図を見つめていた。その瞳の奥には、主君の怒りすら計算式の一部とする冷徹な理性があった。

「……殿下。お怒りはごもっともですが、扇を折っても死人は戻りませぬ」

 官兵衛の静かな声が、秀吉の足を止めさせた。

「今は喪に服す時ではなく、この『死』を利用する時かと」

 秀吉は肩を怒らせたまま振り返る。

「利用だと? どうやってだ」

「信雄様は、正当な理由なく、罪なき重臣を惨殺しました。これは主君としての徳を欠いた暴挙」

 官兵衛は地図に手を置き、伊勢と尾張の境を指でなぞった。

「天下万民に対し、こう布告なされよ。『信雄は乱心し忠臣を害した。亡き信長公の遺志を継ぎ、織田家の秩序を正すため逆賊を討つ』と」

 秀吉の目の色が変わった。怒りの炎が急速に冷え、代わりに氷のような計算が満ちていく。

「……大義名分か」

「はい。これまでは織田家の主筋に遠慮がありましたが、向こうから『討つべき理由』を作ってくれました。これで堂々と兵を動かせます」

 さらに、官兵衛は声を潜めて言った。

「そして……この愚行、信雄様一人の浅知恵とは思えませぬ」

 秀吉の眉がぴくりと動く。

「どういうことだ」

「三家老は徳川との連携に慎重でした。彼らが消えて、一番利を得るのは誰か。……そして、あの疑い深いながらも気の小さい信雄様に、これほどの凶行を決断させた『甘い囁き』の主は誰か」

 官兵衛の視線が地図を東へ滑り、三河・遠江で止まった。

 秀吉はハッと息を呑む。

 脳裏に浮かんだのは、あの男――徳川家康。

(……奴か。奴が、信雄を唆したというのか)

 三家老を殺させ、秀吉を激怒させ、戦へと引きずり込む。自ら手を下すことなく、他人の手で盤面をひっくり返す手口。

「……家康め」

 秀吉の口元が三日月のように歪んだ。それは怒りを超越し、好敵手を見据えた獰猛な笑み。あの愚直な武辺者と思っていた家康が、信長死後、怪しい二面性を見せ始めているところ、実際に確かめる好機とも思えた。

「わしに喧嘩を売るとは、いい度胸だ。信雄という生贄を使って、わしを釣り出す気か」

「その通りかと。家康殿は、殿下が動かざるを得ぬ状況を整えました。ここで受けねば、天下人としての威信に関わります」

 官兵衛の言葉は最後の一押しとなった。

 秀吉は扇を捨て、新たな扇を手に取る。パチン、と扇が開かれた音が軍議の開始を告げた。

「よかろう! その家康の誘い、乗ってやる!」

 秀吉の声は腹の据わったドスを利かせていた。

「全軍に触れを出せ! 逆賊・信雄を討ち、その背後で画策する徳川家康を、引きずり出す!」

 その号令は瞬く間に大坂城を駆け巡り、畿内の諸将を震え上がらせた。

 伊勢で流れた血は巨大な奔流となり、日ノ本を二分する大戦へと雪崩れ込んでいく。

 ――家康の描いたシナリオ通り、二人がついに正面から激突する時が来た。

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