第696節『三月六日の粛清』
第696節『三月六日の粛清』
浜松からの返書が届いた夜、織田信雄の部屋には、久方ぶりに安堵の気配が漂っていた。
彼は家康からの書状を、まるで御守りのように胸に押し当てていた。「支える」の一文が、彼の背骨を熱く貫いていた。迷いは霧が晴れるように消え、残ったのは――己こそが織田家を導く唯一の正当なる後継者という、歪んだ使命感だけであった。
「……徳川殿は、分かってくださる。わしの孤独も、正義も」
信雄は呟き、側近を呼びつける。その声音には以前の怯えはなく、氷のような冷徹さが宿っていた。
「津川、岡田、浅井を呼べ。明朝、登城するよう伝えよ。……織田家の行く末について、腹を割って話したいとな」
和解を装った招集。しかしその言葉に本当の意味を見抜けたのは、信雄と、ごく少数の武断派だけだった。
――その日。
淡い春の日差しが長島城の大手門を照らしていた。津川義冬、岡田重孝、浅井長時の三名は主君の呼び出しに応じ、門をくぐる。ここ数ヶ月の重苦しさとは異なる、どこか晴れやかな足取りだった。
「殿も、ようやくお気持ちが落ち着かれたか」
「ああ。腹を割って話そうとの仰せだ。真意を伝えれば、誤解も解けよう」
彼らは互いに頷き合った。懐には秀吉への対抗策と領国再建案を記した書状。主君との絆を取り戻す鍵になると信じ、潔白を示すため武器は持たず登城していた。
広間へ続く廊下は、妙に静まり返っていた。津川が足を止め、眉を寄せる。
「……静かすぎる」
岡田が苦笑する。
「殿が人払いをされたのであろう。それだけ、大事なお話ということだ」
疑いは浮かんでも――信じたかった。
「津川義冬ほか二名、参上仕りました」
返事はない。衣擦れの音のみが微かに響く。津川が襖に手をかける。
開かれた瞬間、視界を埋め尽くしたのは主君ではなかった。広間の左右、天井裏、柱の陰――無数の兵が、抜身の槍と太刀を構えて雪崩れ込む。
「なっ……!」
叫ぶ間もなく取り囲まれる。交渉も対話も介さない、圧倒的な殺意。
御簾の向こうから、信雄の金切り声が響き渡った。
「やれ! 獅子身中の虫、一匹残らず叩き潰せ!」
その声は恐怖と狂気の境を裂いた。津川は瞬時に悟る。
「殿! お待ちくだされ! 我らを討てば、織田家の柱は――!」
床に押し伏せられながらも叫び続ける。
「それこそ敵の思う壺……!」
だが信雄には、忠臣らが牙を剥く裏切り者にしか映らない。
「黙れ! 貴様らの舌先三寸にはもう騙されぬ! 徳川殿も、わしの正しさを認められたわ!」
刃が振り下ろされる。
銀光が広間を裂き、鈍い音が響いた。津川の声が途切れ、続いて岡田、浅井。丸腰の三人は、なすすべもなく斃れていった。
鮮血が畳に広がる。鉄錆の匂いと、取り返しのつかない静寂。
信雄はふらりと立ち上がり、亡骸を見下ろす。顔に後悔の影はない。ただ、憑き物が落ちたような虚ろな高揚が浮かぶ。
「……終わった。これで、わしの周りは綺麗になった。憂いは……断たれたのだ。ふ、ふは……ははは!」
乾いた笑いが梁に反響する。それは勝利ではなく、滅びの序曲を奏でる狂気の音。
その光景を、天井裏の梁の陰から冷ややかに見下ろす影があった。服部半蔵配下の忍びである。
(……成った)
瞬き一つせず見届け、音もなく闇に溶けた。目指すは浜松。
――「仕掛けは作動した」と、あの方へ伝えるために。
その日、伊勢に降った血の雨は、やがて天下全土を覆う巨大な嵐となり、歴史を飲み込んでゆくことになる。




