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第695節『最後の忠告』

第695節『最後の忠告』

 浜松城の大広間に、早馬の蹄の音が重く響き渡ったのは、早春の冷たい雨がそぼ降る昼下がりのことだった。

 伊勢より駆け込んだ使者は、板間に崩れ落ちるようにして平伏した。泥と汗に塗れた衣が肌に張り付き、その背は小刻みに震えている。彼は単なる伝令ではない。主君・織田信雄の崩壊寸前の精神状態をそのまま背負った、生きた悲鳴であった。

「徳川殿……! 我が殿は、もはや一刻も安らげぬ有様にございます!」

 声が湿った空気を震わせる。

「夜毎裏切りの悪夢にうなされ、昼は側近の影にすら怯えております。家老たちが信じられず、誰が敵で誰が味方かも……。どうか、同盟の誼をもってお知恵を! 彼らを――あの三人を、如何に処すべきか!」

 訴えは相談の体裁を保っていたが、実質は「処断への同意」を求める懇願であった。信雄はすでに刀を抜いている。だが、それを振り下ろすだけの最後の勇気が、自分ひとりでは持てなかったのだ。

 上座の家康は、能面のように静かにそれを聞いた。

 隣の本多忠勝が眉をひそめる。

「……家老を斬れと? 津川殿らは織田家のため尽くした忠臣と聞き及びます。それを疑うとは、正気の沙汰とは思えませぬが」

 忠勝の直感は正しい。作為の存在を知らぬがゆえに純粋な義憤が滲む。

 家康は肯定も否定もせず、ふと目を伏せた。

(……忠勝。お前の言う通りだ。彼らは無実で、有能だ)

 かつて自らが歴史を学んだ記憶がよぎる。津川義冬らが存命なら、信雄を諫め、秀吉との破滅的対立は回避されたかもしれない。

 だからこそ――歴史の通りに殺されなければならない。

 拳を膝で握る。爪が肉に食い込む痛みが、冷徹な決断を維持させた。

「……信雄殿の御心痛、察するに余りある」

 低い声が空気を支配する。

「疑念を抱いたままでは主従の絆は保てぬ。ましてや家中を担う重臣たち。……病巣は深かろう」

 酒井忠次に目配せすると、忠次は無言で硯を運ばせた。

 家康は筆を執る。書く文字が人の命を断つ刃になる自覚だけを抱えて。

 直接「殺せ」とは書かない。証拠を避けるためではない。信雄に必要なのは命令ではなく――共犯としての肯定だからだ。

『――拝復。貴殿の苦悩、我が事のように胸を痛めております。

 天下は今、大きなうねりの中にあります。その中で家を守るためには、時に非情の決断も必要となりましょう。』

 一拍置き、墨を足す。

『獅子身中の虫は、早めに除くが吉と申します。毒が全身に回る前に患部を断つ勇気こそが、名将の証。

 もし貴殿が大いなる決断を下されるのであれば――徳川は、全軍をもって貴殿を支えましょう。』

 その一文が、信雄にとって「処断しても徳川が守ってくれる」という最強の担保となる。

 家康は筆を置き、乾き切らぬまま封をした。封蝋の赤が、これから流れる血に見えた。

「これを使者に」

 忠次から書状を受けた使者は、神託を得たかのように顔を輝かせ、何度も礼を述べて駆け去った。

 その背を見送り、家康の胸中には冷たい風が吹き抜ける。数日のうちに三人の男が無惨な死を遂げ、流された血が羽柴秀吉を激怒させ、巨大な戦乱の幕を開く――それを知りながら。

(……俺は、もう戻れない)

 広間にひとり残ると、掌を見つめた。何も持たぬはずなのに、見えぬ血がべっとり張り付いているかの感覚が消えない。

 その手を握りしめ、静かに立ち上がる。

 感傷は捨てる。これより先は血塗れの舞台を、生き残るために軍略を練るのみ。

 気づけば雨は止み、不吉なほど赤い夕陽が雲の切れ間から差し込んでいた。

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