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第694節『偽りの密書』

第694節『偽りの密書』

 伊勢長島城の夜は、沼地から立ち上る湿気と冷気で満ちていた。

 織田信雄の寝所は、本来ならばもっとも安全な場所であるはずだが、今や主君にとっての牢獄と化していた。不眠が続き、目の下には濃い隈が刻まれている。

 布団の中で身を縮めていても、城内の物音ひとつひとつが暗殺者の足音に聞こえ、風が窓を叩く音さえも密談の囁きのように感じられた。

 彼の精神は、家康の仕掛けた「疑心」と直虎が演出した「経済的困窮」という二つの毒によって、極限まで磨り減らされていた。

 その薄氷のような精神状態の隙間を縫うように、一通の書状が枕元に置かれたのは、丑三つ時のことだった。

 信雄が微かな気配に目を覚まし、震える手で灯りを点けると、そこにそれはあった。誰が、いつ置いたのかも分からない。

 ただ、そこに記された宛名が、彼の手を凍りつかせた。

『――関白殿下 御前』

 差出人は、津川義冬、岡田重孝、浅井長時。

 信雄が最も頼りにし、そして今、最も恐れている三家老の名が連なっていた。

 彼は獣のような速さで封を引きちぎった。

 中から現れたのは、一枚の起請文。

 そこには、彼らの筆跡と花押で、信じがたい文言が記されていた。

『……愚昧なる主君・信雄を見限り、早々に隠居を迫る所存。伊勢一国を殿下へ献上し、織田の血脈を絶つことこそ、天下安寧の礎なり……』

 文字が、ゆらりと揺れた気がした。

 津川の謹厳な書体、岡田の流麗な筆致、浅井の武骨な署名。

 すべてが本物に見える。

 これまで積み重ねられてきた疑念の断片――秀吉からの茶器、経済封鎖への無策、徳川との連携を渋る態度――そのすべてが、この一枚の紙によって、「裏切りの計画」という一本の線で繋がった。

 信雄の喉から、ヒュッという音が漏れた。

 息ができない。心臓が早鐘を打つ。

 恐怖は、瞬く間にどす黒い確信へと変わり、そして烈火のごとき殺意へと昇華された。

「……やはりか」

 彼の声は震えながらも、奇妙に澄んでいた。

「やはり、貴様らだったのか……!」

 信雄は書状を握りしめた。紙がくしゃりと悲鳴を上げる。

 その痛みすら感じないほど、彼の理性は焼き切れていた。

 彼にとって、これはもはや証拠ではない。死刑執行命令書だった。

 信雄は、握りしめた書状を広げ、その文字を食い入るように見つめていた。

 文字が、踊る。裏切りが、笑う。

 彼の目には、もはや理性のかけらも残っていなかった。

 あるのは、追い詰められた獣の凶暴性と、裏切られた(と思い込んでいる)者の激しい憎悪だけ。

「……許さぬ。許さぬぞ、貴様ら……!」

 彼は立ち上がり、寝台の脇に置かれた太刀を掴んだ。

 鞘走る音が、静寂を切り裂く。

 彼は側近を大声で呼んだ。その声は、恐怖を振り払うかのように甲高く、狂気を孕んでいた。

「おい! 三家老を呼べ! 緊急の軍議だとな! 今すぐだ!」

 側近が慌てて走っていく足音が遠ざかる。

 信雄は、冷たい刃に顔を映し、歪んだ笑みを浮かべた。

「……これで、織田家は浄化される。わしが、わしの手で……!」

 それは、終わりの始まりを告げる、狂気の独白だった。

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