第69節『未来への布石』
第69節『未来への布石』
「新太――真実にて調略」。
岡崎の隠れ家でその結論に至った源次は、休む間もなく行動を開始した。壮大な賭けである調略を成功させるには、まず相手の心の最も脆い部分――彼の出自――を突くための確かな『弾』が必要だった。その弾とは、彼が信じてきた『井伊への憎しみ』を根底から覆す、母にまつわる真実の記録だ。
薬籠を背に負い、再び「佐吉」と名乗る源次は、井伊領の山道をひとり歩いていた。
腰のあたりで薬箱が小さく揺れ、木札がかすかに音を立てる。
「……焦るな」
心の奥で繰り返す。だが足取りは、どこか急いていた。
重吉からの文には、こうあった。
――井伊領の寺をあたれ。記録はまだ残っているはずだ。
過去帳。それは寺が代々守り伝えてきた、人々の痕跡の集積。死者の戒名だけではなく、檀家の出自や由来、時に恥とされた出来事までも記される。つまりそれは、村の記憶であり、領の記憶そのものだった。
源次は、この井伊に残された過去帳の中にこそ、新太の心を揺さぶる「鍵」があると踏んでいた。
最初の寺は、廃れていた。二つ目の寺では、厳格な住持に追い返された。
「……だめか」
夜更け、宿の暗がりで、源次は頭を抱えた。
日々は無情に過ぎていく。岡崎の酒場で聞いた、武田家中の不和が脳裏をよぎる。あれほどの武勇と人望を持ちながら、出自ゆえに孤立している男。そんな危険な均衡が、長く続くはずがない。家中の政争に潰されるか、あるいは功を焦って無謀な戦に身を投じるか。いずれにせよ、猶予はない。
(時間がない……。だが、必ず掴まねばならぬ)
そのとき、重吉からの伝言を思い出す。
――最後にひとつ、北の山寺を調べよ。
そこに望みを託し、源次は山道へと馬を進めた。
苔むした石段は、山霧に沈んでいた。
本堂の縁側に、一人の老僧が腰を下ろしていた。
「……旅の薬売りか」
低く落ち着いた声。
源次は恭しく頭を下げた。「佐吉と申します。薬を売り歩く傍ら、探しものがございまして」
源次は用意してきた言葉を口にした。
「数十年前に、遠縁の尼が行方知れずになりまして……。その者の足跡を探しております。もしや御寺の過去帳に、名が記されてはおらぬかと」
老僧は、源次の「名を遺すことは、生きた証を守ること」という誠意に心を動かされ、ついに蔵の扉を開いた。
「……おぬしの誠意に免じ、一度だけじゃ」
書庫は薄暗く、棚には幾冊もの分厚い帳面が並んでいた。
源次は灯火を近づけ、震える手で一冊を開いた。
一枚、また一枚と、慎重にめくっていく。
そして――。
「……あった」
声が震えた。
そこに、確かに記されていた。
――天文二十三年。
――伊和。
――城仕えの身にて不義の子を身ごもり、許されず。縁者を頼り、甲斐の国へ逃れる。
「伊和……」
その名を目にした瞬間、源次の胸に電撃のような衝撃が走った。
新太の母。史書から消され、誰も語ろうとしなかった女性の名。それが、ここに確かに刻まれていた。
さらに目を走らせる。「……不義の子、か」
源次の眉間に、深い皺が刻まれた。
(待てよ……。城仕えの身で身ごもった……? だがおかしい。新太は信玄の子のはずだ。敵国の大名である信玄が、どうやって井伊の城で女中に子を……?)
一瞬、思考が停止する。だが、歴史研究家としての彼の脳が、膨大な知識の中から可能性を探り始めた。
(落ち着け、整理しろ。まず、天文二十三年という年号。この頃、武田と今川はまだ敵対していない。むしろ「甲相駿三国同盟」によって、固い同盟関係にあった。信玄が、同盟者である今川義元の配下、井伊家の領地に何らかの形で立ち寄ったとしても、外交的には不自然ではない)
源次の心臓が早鐘を打つ。
(そうだ。歴史の表記録には残らない、非公式の訪問。あるいは使者としての立ち寄り。その夜、信玄は伊和と出会い、そして……子ができた)
息が詰まる。これは、単なる家中の恥ではない。井伊家と武田家、二つの家の根幹を揺るがす、あまりにも深く、危険な秘密だ。
(当時の井伊家は今川の家臣だ。その家臣の家の女中が、ライバルである武田信玄の子を身ごもったなどと知られればどうなる? 今川から「武田への内通」を疑われ、家は取り潰される。だから井伊家は、この一件を「不義の子」として記録を抹消し、母子を追放するしかなかったんだ)
(一方、武田信玄にとっても、辺境の小家の女中との間にできた子は、家督争いの火種になるだけ。だから彼もこの一件を闇に葬った。だが、生まれた子、新太の武才があまりに優れていたため、手元に置いて非公式の駒として利用している……辻褄が合うぞ!)
源次は頁に目を焼き付けるように凝視した。
その記録は、歴史の闇に葬られた一人の女性の悲しみであり、同時に新太の始まりでもあった。
「……これが、調略の鍵だ」
声は低く、しかし確信に満ちていた。
彼は今、ただの過去を掘り返したのではない。未来を変えるための「真実の欠片」を手にしたのだ。
閉ざされていた扉が、静かに開く音がしたように思えた。
源次は帳面を閉じ、深く息を吸い込んだ。
埃の匂いすら、いまは新鮮に感じる。
(これを、新太にどう伝える……?)
胸の内に、次なる問いが芽生える。
だが確かに一歩を踏み出した。未来への布石は、今ここに置かれたのだ。