第688節『四国の蛟』
第688節『四国の蛟』
紀伊水道を抜けた冬風が、土佐の海原に白波を立てていた。
四国の覇者・長宗我部元親は、居城・岡豊城の櫓に立ち、荒れ狂う海を射抜くように見下ろしていた。
背後には、四国統一という悲願成就の熱が満ちている。だが元親の胸中には、達成感よりも、追い立てられるような焦燥が渦巻いていた。
――海の向こう、畿内を呑み込む巨獣、羽柴秀吉。
「……その手が、やがてこの島へも伸びる」
手摺りを握る指が軋んだ。信長亡き後、四国を調停していた支柱は失われ、秀吉による介入は避けられぬ情勢となっている。服従か、抗争か。決断は迫っていた。
そのとき――。
沖合から一隻の船が、海面を切り裂くように港へ入ってきた。艫から舳先まで黒漆塗り、波を押し分けるような異質な船影。帆には、井伊の井桁紋。
「……どこの水軍だ?」
元親は目を細めた。井伊という遠江の小勢力とわかったがつまりは、東海の徳川家康と察した。
夜。内密に通された使者は僧形の男だった。井伊水軍の快速船を駆り、海路のみで土佐に入ったという。
元親は床几に腰を下ろし、鋭く問いかける。
「三河殿が、土佐の田舎侍に何用ぞ。同盟でも結ぶか?」
挑発めいた物言い。だが使者は微動だにせず、小さく首を振った。
「紙切れの同盟など、秀吉の前では紙屑に等しい――家康公は、そう仰せです」
元親の眉がわずかに動く。
「ならば何を求める」
「……『共鳴』にございます」
使者は地図を広げた。近畿を中心に、北陸・伊勢・東海の勢力が描かれ、南の紀州には黒い印。その図に空白の四国が重く浮かぶ。
「秀吉の視線は天下にありますが、足元は盤石にあらず。
北には柴田の残党、東には徳川、南には雑賀・根来――」
指が四国の上に止まる。
「――そして、西に長宗我部殿」
言葉がわずかに熱を帯びる。
「徳川が東で動けば、四国の海は手薄となる。その隙に淡路、あるいは瀬戸内へ。
逆に、元親殿が西で秀吉の足を引けば、我らは東からその喉笛を食い破る」
約束も盟約もいらぬ。ただ阿吽による、野心と暴力の連携。
元親の喉奥から、押し殺した笑いが漏れた。
「くくく……はーっはっは! 面白いぞ!」
笑い声は櫓の梁を震わせ、やがて硝子のような目が使者を捉えた。
「よい。徳川殿に伝えよ――」
間を置き、低い声で言い放つ。
「――『猿が東を向けば、土佐の波が西を洗う』とな」
それが、四国の蛟の返答だった。
数日後。浜松城。
使者の報告を受けた家康は、静かに頷き、四国へ黒い碁石をひとつ置いた。
カツン――。
乾いた音が、無人の工房に不気味に響く。
「……これで蓋は閉じた」
地図上には、北陸、紀州、四国。見えざる包囲が完成していた。
家康は窓外の冬空を見上げる。
(秀吉よ。お前の築いた巨城が、どれほど脆いか――教えてやろう)
仕込みは終わった。火種が放たれるのを待つのみである。




