第687節『紀州の狼たち』
第687節『紀州の狼たち』
浜松城で家康が「地に根を張る国づくり」を語っていたその頃、彼が半蔵に託した謀略の種は、紀伊半島の山深き谷で、すでに黒く澱んだ芽を吹き始めていた。
紀州・雑賀の里。
岩肌を削る清流の音と、鉄砲鍛冶の鎚音が混ざり合い、山間を震わせている。
伊賀者に扮した行商人たちは、煤けた堂宇に通された。
そこでは、雑賀衆の頭領らが車座になり、酒碗を傾けながら、獣の目つきで訪問者を値踏みしていた。
伊賀者は言葉を発さず、一通の書状を差し出す。
――差出人 織田信雄。
その文には、父・信長が雑賀・根来衆を弾圧したことへの詫び、そして簒奪者・秀吉討伐のため力を貸してほしいとの懇願が記されていた。
もちろん、家康による歴史知識を駆使した 虚構の書である。
「へ……」
最年長の頭領が、紙を火に透かしながら笑った。
焔に照らされた文字が赤く浮かぶ。
「信雄? あの間抜け坊主が、親父の罪を詫びて頭を下げてんのかよ。……笑わせやがる」
だが、笑いはすぐに牙を帯びた。
「だが、書いてあることは――嫌いじゃねえ」
頭領は、膝に立てかけた鉄砲の銃身を撫でた。
その手つきは、女を抱くよりも艶めかしかった。
「猿が刀狩りに検地? 俺たちの銃も田畑も取り上げるってんなら――」
銃口を、まるで獲物を狙うようにわずかに上げる。
「――向ける先は、一つだろうが」
焚火が揺れた。根来衆の僧兵が低く笑う。
「織田の小倅が神輿に乗るなら、大義名分は整う。信長の遺血を利用して背を撃つ……悪くない」
「面白ぇじゃねえか」
「派手に火薬を撒いてやろうぜ」
「…地獄が開くぞ」
真偽など誰も気にしない。
彼らに必要なのは、牙を剥く理由――ただそれだけだった。
こうして、信雄が動いた瞬間、紀州の鉄砲衆は大坂を背後から脅かすことを密約した。
数日後。闇から戻った半蔵の報告を聞き終えると、家康は黙って地図の紀州に黒い碁石をひとつ、カツンと置いた。
乾いた音が、工房の静寂を裂いた。
「……これで狼どもは、すでに飢えて確実に牙を剥く準備が出来たか」
「はっ。牙を研ぎ、目を血走らせております」
家康は扇を静かに閉じ、目を細めた。
北の柴田残党。
南の雑賀・根来。
見えぬ包囲網は、大坂に座する秀吉を挟み込む顎として、徐々に形を成しつつある。
(偽りの文で人を動かす…)
(だが――偽りほど強い現実を生むこともある)
家康の目が、さらに西――海の向こうへ向かった。
「次は、南海の蛟を完璧に釣り上げにいくのだ」
井伊谷の直虎を通じて築いた海路網。
陸は秀吉に押さえられている。だが――海は、まだまだ自由だ。
「風を呼べ。潮を動かせ。……四国に我が名を送る」
扇が、静かに闇を切った。




