第685節『半蔵、帰還す』
第685節『半蔵、帰還す』
浜松城奥は夜の底に沈んでいた。
障子越しに風が木々を揺らす音は微かに届くが、分厚い壁に閉ざされた室内には、油皿の芯がぱちりと弾ける音が、小さく孤独に響くだけだった。
家康は卓上いっぱいに広げられた日本図を見つめていた。
視線は墨線ではなく、その線の彼方で蠢く人の思惑と時勢の流れを追っている。西には膨張する羽柴秀吉勢。東には、自ら固めつつある徳川領。境界はまだ静か――それゆえ、不気味だった。
「……遅いな」
独りごちた声が闇に溶けた瞬間、部屋の隅の陰が揺らいだ。
音もなく、温さえ残さずに一人の男が現れる。
黒衣、血の匂い、研ぎ澄まされた眼光。服部半蔵正成――伊賀越えの夜を共に這いずった、徳川の最奥に棲む影。
旅塵にまみれ、やつれた頬。それでも足取りは乱れず、瞳には一切の濁りなし。
「――戻りました」
わずか四文字。半蔵は懐より密書を取り出し、卓へと置く。紙は湿り気を帯び、墨の香りと共に、潜ってきた修羅場の温度を部屋へ運んだ。
「ご苦労。……して、釣果は」
「大漁、と申せましょう。網にかかったのは魚ではなく――怨嗟の声でございますが」
家康は紙を開く。そこに記されていたのは兵数ではない。
敗れ、切り捨てられ、己の居場所を失った者たちの名だった。
賤ヶ岳で敗れ北ノ庄を失った柴田残党。秀吉の検地や国替で領地を奪われた美濃・伊勢国衆。そして織田家家督争いで冷遇された数多の武将たち。
墨文字は静かに並んでいたが、その裏に潜む感情は、沈殿した鉛のように重かった。
「……これほどとはな」
家康の指先が紙面をなぞる。半蔵が続ける。
「誰もが行き場を失い、声を上げる術もなく燻っております。表立って猿――羽柴殿に逆らう力はございませぬが、心底では再起の機を狙っている者ばかり」
そこで半蔵の声がさらに低くなる。
「そして――その者たちが今、吸い寄せられるように集まりつつある場所がございます」
「……信雄様のもとへ、か」
「御意」
織田信長の次男・織田信雄。
秀吉の政治術により蚊帳の外に置かれながらも、いまだ「織田家の血」の象徴。
家康は地図を見やる。敗者たちの無数の点が、信雄を旗印に線となり、面となり、次第に大坂を包囲しようとしている。
(……なるほど。火種が集まるべき場所に、ようやく集まったか)
胸底で源次としての記憶が疼いた。――信雄は、いずれ秀吉と決裂する。安土退去、領地削減。追い詰められたその時、必ず暴発する。その時こそ、歴史は揺らぐ。
「半蔵。西国の仕込みは」
問うと、半蔵の口元がわずかに動いた。
「紀州の雑賀・根来、四国の長宗我部元親――いずれも密約は維持しております。『秀吉に背を見せた瞬間に動け』と。彼らもまた、殿の合図を待っております」
「よし」
家康は伊勢、美濃、北陸、紀州、四国へと指を滑らせ、最後に大坂の周囲を円で囲い込んだ。
北陸の残党、伊勢の信雄、紀州の狼、四国の蛟。
散らばっていた火薬に、今まさに導火線が繋がる。
「火は撒いた。あとは――誰が火打石を打つか」
立ち上がる。半蔵の影が地に長く伸びた。
「半蔵。伝えよ。
『時は満ちつつある。信雄様の決起に呼応し、一斉に狼煙を上げよ』と」
まだ信雄は動いていない。だが、必ず動く。
その瞬間こそ、猿を四面楚歌に追い込む唯一の機。
「我らが動けば、奴は四方を敵に囲まれる。……逃すな、と」
家康の瞳に、油皿の灯が揺らめいた。
それは夢想した理想ではない。天下という怪物と渡り合うための、現実の謀略。
「……御意」
半蔵は一礼すると、夜気と共に音もなく姿を消した。
残された家康は、再び地図を見つめる。
その瞳には、迫りくる戦乱の炎が、静かに灯り始めていた。




