第68節『新太という変数』
第68節『新太という変数』
隠れ家の薄明かりの中、源次は一人、紙の上に書き連ねた文字をじっと見つめていた。
「井伊の針路は、徳川」。
昨夜、彼がたどり着いた大局の羅針盤。そして、その徳川との交渉を有利に進めるための最大の鍵が「新太調略」であることは、井伊谷を発つ前に直虎様と確認済みだ。
問題は、その方針が本当に正しいのか。岡崎で得た新たな情報が、その計画にどう影響するのか、源次は改めて思考を巡らせていた。
紙の隅に、一つの名が書き込まれた。――新太。
「調略は、あまりにも危険な賭けだ。もし失敗すれば、井伊は武田と徳川の両方から睨まれ、逃げ場を失う」
彼はまず、最悪のシナリオを想定した。
(だが、他の選択肢はどうか?)
彼は紙を裏返し、思考を整理する。
(まず「放置」。これは論外だ。徳川の結束力を見た後では尚更、背後に脅威を残したままの同盟などあり得ない)
(次に「排除」。これも駄目だ。酒場で聞いた浪人の話が真実なら、新太を慕う兵は多い。彼を討てば、武田は復讐に燃え、逆に結束を固めるかもしれぬ。主君を暗殺された家臣団が、復讐心で驚異的な力を発揮する例は歴史上枚挙にいとまがない。そんな状況は、徳川にとっても望ましくない)
思考は振り出しに戻る。
(やはり、残された道は「調略」しかない。だが、どうやって?)
源次の手が、思わず止まった。
(あの男が金や地位で動くとは思えん。ならば、突くべきは彼の心の最も脆い部分――『出自へのコンプレックス』だ)
井伊谷での分析が脳裏に蘇る。
(そうだ。俺がやるべきことは、彼に『真実』を突きつけること。彼が信じてきた『井伊への憎しみ』という土台を、根底から覆すための証拠を)
想像は、一気に広がっていく。
(もし、彼の母が井伊家を追われた本当の理由――すなわち、信玄が彼女を身ごもらせたことこそが元凶であったという『真実』を提示できれば? 彼の戦う理由そのものが失われる。いや、それだけじゃない。彼の憎しみの矛先は、母を不幸のどん底に突き落とした張本人である武田家、特に彼を冷遇する連中に向かうはずだ)
(そこを突く。武田に居場所のない彼に、井伊という新たな『居場所』を用意する。それこそが、彼を動かす唯一の道だ)
だが、その調略には計り知れないリスクが伴う。最強の駒を奪われた武田は逆上し、徳川もまた井伊を危険視するだろう。
それでも、源次の目にはそれを上回る圧倒的なリターンが見えていた。
(しかし、それこそが井伊の価値を最大化する唯一の道だ。ただ頭を下げて徳川の軍門に降るのではない。『武田の猛将すら手玉に取る調略能力と、武田の内情という最高の手土産を持った、価値ある存在』として、対等に近いパートナーシップを結ぶことができるのだ)
源次の目が見開かれる。
(新太の調略は、単に脅威を取り除くだけではない。井伊の未来を切り拓くための、攻めの一手なのだ!)
井伊谷での推論が、岡崎での情報収集によって、揺るぎない確信へと変わった瞬間だった。
だが、その結論に至った瞬間、源次の背筋を冷たい汗が伝った。
(待てよ……。史実に存在しなかった彼に、俺が介入するということは、俺自身が歴史を大きく変えるということだ。もし俺が新太を調略すれば、武田の滅び方が変わるかもしれない。徳川の台頭の仕方が変わるかもしれない。そうなれば、俺が頼りにしている『徳川が天下を取る』という“定数”そのものが、崩壊する危険性すらある)
(……なんてことだ。推しを守るために変数を動かせば、定数までが揺らぎかねない。だが、変数を放置すれば、定数にたどり着く前に推しが死ぬ。どっちを選んでも地獄か……)
蝋燭の炎が揺れ、源次の影を壁に映す。
(いや……迷っている暇はない。俺がここにいる意味は一つだ)
その目には、もはや迷いはなかった。
(たとえ天下の形が変わろうとも、俺は直虎様を守る。井伊谷を守る。そのために、この変数とやらを、俺がコントロールしてみせる)
紙の上に、新たな言葉が力強く書き込まれる。「新太――真実にて調略」
その筆跡は、彼自身の運命をも定めるように、墨痕濃く刻まれた。