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第677話『北ノ庄、燃ゆ』

第677話『北ノ庄、燃ゆ』

 賤ヶ岳での決定的な敗報から、数日が過ぎた。

 浜松城・評定の間に、誰もが心の奥では恐れていた、しかし誰一人として耳にしたくはなかった報せが届いた。北ノ庄城より帰ってきた間者は、煤けた顔のまま膝をつき、掠れた声で告げた。

「――北ノ庄城、落城。柴田勝家は天守に自ら火を放ち、信長様の妹君・お市の方と共に……壮烈なる御最期を遂げられた、とのこと……」

 その瞬間、広間に漂っていたわずかな希望さえ、音もなく崩れ落ちた。

 誰も声を発しない。呻きも怒号もない。戦乱の世に身を置く歴戦の将たちですら、あまりに峻烈な最期を前に言葉を失い、ただ立ち尽くすばかりであった。

 織田家筆頭家老にして「鬼柴田」と恐れられた猛将が、己がすべてを賭して選んだ炎の死。その報せに、本多忠勝は静かに拳を握り締める。その勝家が、武士としてこれ以上ない最期を遂げた――その事実が胸を焼いた。

(……見事よ)

 その言葉は、唇に触れるより前に沈み、熱だけが残った。

 だが、その沈痛な空気の中で、ただ一人、家康だけは異なる思考の淵にいた。

 彼の胸に浮かんだのは、燃え盛る天守ではない。その炎を冷ややかに見下ろしているであろう、一人の男の影――

 羽柴秀吉。

(……あの男か)

 感情は激しく揺れなかった。ただ、深く、静かに、水底のような嫌悪が沈殿していく。

 家康は知っている。歴史として。また半蔵の密報として。秀吉が、お市の方を自らの側室とするべく、最後まで執拗に働きかけていたことを。

 それはただの婚儀ではない。信長亡き後、その妹を己が傍らに置くことで、自分こそ正当な織田の継承者であると天下に知らしめる――そんな冷徹な計算。

(人の情も、家の誇りも、あの男にとっては覇の飾りに過ぎないということか)

 拒まれ、それを炎の中に葬られた今。あの男が胸に抱くのは悼みか。いや。

(……子が玩具を取り上げられた時の苛立ちに、そう遠くはないだろうな)

 家や人の心さえも、自らの野望を飾る道具として用いる。その無慈悲。その在り方こそが、家康にとって決して踏み込んではならぬ領域であった。

 彼は、この戦の勝者である秀吉に、勝利の光ではなく、人の道を逸脱した者が纏う、底知れぬ闇を見たのである。

 家康はゆるやかに瞼を閉じた。

(……必然としても、目指す道としても、いずれにしても、刀を交える刻が来るだろうな)

 それは領地を巡る争いではない。

 人の道を重んずる己と、覇を掲げすべてを飲み込まんとする男。その対峙は、いかにしてこの国が治まるべきかを問う――宿命の裁き。

(その時に、俺が信じている道が否定されるなら……俺は、自分の全てを捨ててでも最後は勝ちにいくしかない)

 静かに目を開いた家康の瞳には、悲憤も激昂も浮かんでいなかった。

 ただ、山の如く動じぬ決意と、雪解け前の土中に宿る熱だけが、ひそやかに灯っていた。

 評定の間には、依然として重苦しい沈黙が満ちる。

 だが、その奥底――誰にも気づかれることなく、次なる戦いの炎が、確かに息を吹き始めていた。

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