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第671話『二つの太陽』

第671話『二つの太陽』

 浜松城は、外の陽気とは裏腹に、氷のような静默と張りつめた気配に満ちていた。家康は卓上に広げた巨大な地図の前で、京と北陸とを結ぶ一本の線に視線を注ぐ。

 今、天下の潮目がどちらへ傾こうとしているのか――その一点に、全神経を研ぎ澄ましていた。

 静寂を破ったのは、闇より滲み出る影ひとつ。

 服部半蔵。

 この数ヶ月、彼は京・大坂を奔走し、その目と耳で、燃え盛る「二つの太陽」の実像を追っていた。

「――殿」

 声はかすれていた。旅の疲労と、携えた報があまりに重大であることが、僅かな声色ににじむ。

 家康は顔を上げず、ただ低くひと言。

「申せ」

 半蔵は静かに前へ進むと、懐より取り出した幾十もの紙片を地図の上に広げた。いずれも血の匂いを帯びた、生の情報である。

「柴田勝家、北ノ庄に兵四万を集結。前田利家、佐々成政ら織田の古参が、その旗の下に馳せ参じております。まさしく織田正統を掲げるにふさわしき陣容」

 彼は駒を、北陸道に沿って置いていく。

「対する羽柴秀吉、近江長浜に兵五万。丹羽長秀、池田恒興ら、こちらも信長公が抜擢された将たちが配され、その勢い――まさに日の出のごとし」

 秀吉軍の駒が、京と大坂を覆う。

「……まさしく織田家を二つに割る、二つの太陽」

 地図上に描き出されていく勢力図を、家康は鋭く見据えた。

 だが、半蔵の言葉はここで終わらない。

「されど――」一段声を潜める。「勝家様の陣には、一抹の不安がございます。集まった将たちは皆、信長公が尾張一国衆であられた頃からの譜代。絆は固し。ゆえに……」

 半蔵は苦渋を滲ませる。

「未だ、古き戦を信じております。槍働きこそ武士の本懐と捉え、新たな戦術や、時代の流れを見切るには至らずと」

「……して、猿は」

「秀吉は、違います」

 半蔵の声音には、もはや感情が混じっていた。

「彼の陣は武士のみならず、堺の商人、根来の鉄炮衆までが出入り。金と情報、その両輪を操り、兵数以上の力を生み出そうとしております。そして何より――」

 一拍置いて、決定的なひと言。

「背後に、帝までも動かさんとする朝廷工作が。殿……秀吉は、もはやただの武将にあらず。信長公が成し得なかった手法で、この日の本そのものを――内側から塗り替えようとしております」

 家康は、初めて顔を上げた。

 脳裏で、歴史研究家としての知識と、半蔵の「現地報」が火花を散らしながら結びついていく。

(……やはり、か)

 自らの知る「賤ヶ岳の戦」という乾いた結果。その背後には、これほどまでに複雑で、人の欲と策が渦巻いていたのか――初めて血肉を通して理解した。

(史実では秀吉が圧勝する。だが、なぜなのか? 兵力差だけでは語れぬ。答えは――この情報の海の中にある)

 家康は目を閉じ、半蔵の報告と己の知識とを脳内に重ねていく。

「……見えてきたぞ、半蔵」

 静かに目を開いたその瞳には、すでに傍観者の影はなかった。

「この戦の『流れ』が。そして――我らがその流れの中で成すべきこともな」

 その声音には、己が最も有利となる形でこの大戦を「操ってみせる」冷徹な戦略家の響きが宿っていた。

 徳川家が、天下という名の荒海へ、最初の舵を切る刻――もはや目前であった。

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