第67節『歴史の定数』
第67節『歴史の定数』
第67節『歴史の定数』
武田の砦で新太が家中の不信に喘いでいる頃、源次は井伊家から課せられたもう一つの任務――徳川の内情調査――のため、三河国・岡崎の地にいた。
薬売り「佐吉」として町に溶け込み、彼はその目と耳で、この国の本当の姿を吸収していった。
表通りに響く活気、安定した米価、そして戦支度に追われながらも揺るがぬ民の暮らし。それらすべてが、若き領主・徳川家康の非凡な統治力を物語っていた。
夜。隠れ家に戻った源次は、薄明かりの下で紙を広げた。
昼間に得た情報を、一つひとつ書き付けていく。彼の頭の中では、武田、今川、徳川、そして織田という巨大な駒が、天下という盤上で動いていた。歴史研究家として、彼はただ見聞きした情報を並べるだけではない。その背後にある構造を読み解こうとしていた。
(武田信玄。その名は東国一の雄。だが、その強さは信玄個人のカリスマに依存しすぎている。昨年の義信事件の傷は深く、家臣団は一枚岩ではない。信玄亡き後、この巨大な組織がどうなるか、俺は知っている)
(今川。桶狭間で義元を失って以来、坂道を転がる石だ。氏真公に器がないわけではないが、一度失った求心力は戻らない。滅亡は時間の問題だ)
(そして徳川。三河一向一揆という、国を二分する内乱を乗り越えた経験が、この国の異常なまでの結束力を生んでいる。家康は裏切った者すら許し、再び家臣として受け入れた。普通ならありえないその選択が、恐怖ではなく信義で結ばれた最強の武士団を育て上げたのだ)
一見小さな力。しかし、それは決して折れない鋼のような力でもある。
筆を走らせながら、源次の思考はさらに広がる。
(忘れてはならぬ。織田信長。彼こそがこの時代のゲームチェンジャーだ。その革新的な思考と容赦ない決断力の前では、古い権威は無力。その波に正面から抗う者は、ことごとく呑み込まれる)
今川は呑まれた。武田もまた、いずれ信長との対峙の中で衰退する。
では、生き残るのは誰か。
源次の筆が止まり、やがて力強く走る。「徳川家康」
信長に屈しながらも、時に頭を下げ、時に反発し、粘り強く生き残る。その器量こそが、未来を切り拓く。
やがて紙の上に浮かび上がった結論は、一つだった。
(武田の衰退と、徳川の台頭。そして、井伊が最終的に徳川の重臣となること。これらは俺が知る歴史の大きな流れ――“定数”だ)
源次は深く息を吐いた。それは悟りにも似た確信だった。
(だが、結末を知っているだけでは意味がない。問題は『過程』だ)
歴史研究家としての彼の思考は、さらに深く潜っていく。
(歴史書には「井伊家は徳川に仕えた」と一行で書かれている。その裏で、直虎様がどれほどの苦難を強いられ、井伊谷の民がどれほどの犠牲を払ったのか、俺は知識として知っている。だがそれは、乾いた文字の上での話だ。今、俺の目の前にいるのは、血の通った彼女たちだ。その苦しみを、ただの歴史として傍観することなど、俺には到底できない)
(違う。俺の役目はそれじゃない。この知識は、未来を知るためのものではなく、未来を『より良く』するための武器だ。推しを、井伊谷を、史実の裏で失われたであろう苦難から守り抜く。そのために、俺はこの“定数”という名のレールの上で、最善の選択をし続けなければならない)
蝋燭の炎が揺れ、源次の影を壁に映す。
その目には、もはや迷いはなかった。
井伊直虎の未来、井伊家の命運――その針路を、最善の形で導く。それが彼の使命だった。