第669話『直虎の便り』
第669話『直虎の便り』
浜松城は、静寂に包まれていた。
壁に張り巡らされた地図と、床に散らばる報告書の山。その中心で、家康はただ黙して、国づくりのための膨大な数字と格闘していた。
それを砕く、二通の報せが井伊谷から届けられたのは、昼下がりのことだった。
彼はまず、井伊直政からの公式な軍功報告を手に取った。若々しくも力強い筆跡が、紙の上で躍っているかのようだ。「赤鬼」と「黒鬼」の見事な連携、日に日に増す赤備えの武威。その報告に、家康は満足げに頷いた。自分が蒔いた種が、見事に芽吹いている。
だが、次に彼が手にした、もう一通の私的な便り。
それが、彼の心の全てを、根底から覆すことになる。
差出人の名は、井伊直虎。
その、柔らかく、しかし芯の通った筆跡を見ただけで、彼の胸の奥で、凍てついていた何かが、かすかに軋む音がした。
文面は、直政の成長を喜ぶ、養母としての穏やかな言葉で家康への礼が綴られていた。彼はその一文字一文字を、まるで渇いた旅人が水を求めるように、貪るように読んだ。彼女が、穏やかに暮らしている。その事実だけで、心が満たされる思いだった。
そして、彼の目は、書状の末尾に記された日付に、たどり着いた。
その数字の羅列を、彼の脳が、歴史研究家としての冷徹さで、瞬時に認識する。
認識して、そして――凍り付いた。
(……過ぎている)
彼の喉から、声にならない声が漏れた。
その日付は、彼が、その脳髄に刻み込んできた、井伊直虎という女性の「命日」だった日付を、すでに数ヶ月、過ぎていたのだ。
これまで、彼はその事実から無意識に目を背けてきた。
友の死、自らの罪、そして家康として生きるという重圧。その全てが、彼の心を支配し、「推し」の運命という、あまりに個人的で、触れると自らの魂が崩壊しかねない情報から、彼を遠ざけていた。心のどこかで、「どうせ史実通り死んでしまうのだろう」「自分が側にいられなかったのだから、救えるはずがなかった」と、諦めていた。その諦観が、彼をかろうじて正気でいさせていたのだ。
だが、今、目の前にあるのは、紛れもない「生存」の証。
その事実を認識した瞬間、彼の胸の奥で、張り詰めていた氷が、爆発的な轟音と共に砕け散った。
彼は、書状を握りしめたまま部屋を飛び出すと、誰の目も届かぬ城の奥庭へと駆け込んだ。そして、一人きりになった途端、これまで抑えに抑えてきた全ての感情が、奔流となって溢れ出した。
彼は、子供のように拳を突き上げ、声を殺して天に叫んだ。
「やった……! やったぞぉぉぉっ!」
涙が、堰を切ったように頬を伝う。
それは、軍師でもなければ、為政者でもない。
ただ、愛する「推し」の生存という、ありえない奇跡を、自らの手で成し遂げたと信じた、一人の男の、魂からの歓喜の叫びだった。友の死も、自らが背負った罪も、全てがこの瞬間のためにあったのだ。この歓喜こそが、彼のこれまでの全ての苦悩と罪悪感を肯定してくれる、最高の、そして唯一の報酬だった。
だが、その熱狂が、嵐のように過ぎ去った後。
彼の、歴史研究家としての冷徹な魂が、全く別の、そしてより根源的な問いを、氷のように冷たく突きつけてきた。
(……待て。本当に、俺が『変えた』のか?)
彼の脳裏に、これまでの戦の、史実とのわずかな「ズレ」が蘇る。新太の存在、徳川家臣団の予想を超えた結束、そして自らが引き起こした謀略の、あまりにスムーズすぎる進行。
(もしかしたら、俺が知っている『歴史』そのものが、不完全だったのではないか? 後世に伝わった書物や記録は、勝者によって都合よく編纂された、ただの一側面に過ぎないのではないか? 直虎様がこの年に亡くなるというのも、実はただの『説』の一つで、本当の歴史ではもっと長生きしていたのかもしれない。俺は、歴史を変えたのではない。ただ、これまで誰も知らなかった、『真実の歴史』のルートを、なぞって見ているだけなのではないか……?)
それは、彼がこれまで絶対の拠り所としてきた「未来知識」という名の羅針盤が、実は不確かで、信頼に足らないものである可能性をいくつか示唆していた。
しかし、その疑念は、彼を絶望させたのではない。
むしろ、逆だった。
(面白い……。実に、面白いじゃないか!)
彼の目に、新たな、そしてより強烈な闘志の炎が灯った。
もし、未来が自分の知る未来へと確定していないのだとしたら。
もし、この先に自分の知らない分岐点が、無数に存在しているのだとしたら。
(ならば、俺が創るしかないじゃないか! あの人が、心から笑って暮らせる、最高の未来を! どんな歴史書にも記されていない、俺だけのエンディングを、この手で!)
推しの生存という事実は、彼に歴史知識への慢心を捨てさせ、代わりに、自らの意志で未来を切り拓くという、より能動的で、そしてより強固な覚悟を与えた。
彼の戦う理由は、「推しを守る」という受動的なものでもあったが、「推しが最も幸せになる未来を、この手で創造する」という、創造主としての、絶対的な意志へとさらに昇華したのだった。
彼は、直虎からの手紙を、自らの魂を守る最後の守り刀であるかのように、その胸に固く抱きしめた。そして、静かに、しかし力強く、次なる戦場を見据えていた。




