第668話『赤備え、初陣』
第668話『赤備え、初陣』
浜松で家康が新たな政のかたちを模索していたその頃、井伊谷の訓練場は、今にも破裂しそうな熱気に満ちていた。
新太の地獄の鍛錬と、直政の覚醒によって一つに結束した「井伊の赤備え」。その練度は、もはや辺境の小領主が抱える一備隊の域を超え、獣じみた圧力を孕んでいた。訓練場に響く鬨の声は、もはや訓練のそれではない。戦を渇望する若き獅子たちの、檻越しの咆哮である。
その中心にいた若き当主・井伊直政は、誰よりも強く焦燥していた。
(……まだか。なぜ我らの刃は抜かれぬ)
そんな折、領境の山村が、野盗化した武田残党に襲われるという報が入る。直政にとって、それは燻り続けた芯に火が落ちるのと同じ意味を持った。
だが、その直政の焦燥を、そして井伊谷に渦巻く空気を、静かに見通していた者がいた。
龍潭寺近くの庵で身を潜める、かつての女地頭・井伊直虎である。
ほぼ同時に、指南役・新太の元へ、一通の密書が届けられた。
『――新太殿。若き獅子は、檻の中にいては牙を研げませぬ。されど、手綱を握る者がおらねば、ただの獣となりましょう。その役、あなたに託します』
短い。しかし、養母としての愛情と領主としての遠謀が澱なく滲む文面だった。
(……直虎様。俺に、この若獅子の最初の牙の振るい方を決めろ、と)
新太は理解し、決断した。
逸り立つ直政を抑えるのではない。むしろ、飛ばす。だが、飛ばす方向は自分が定める――そういう役割である。
その夜、彼は直政の私室を訪れた。
「若殿。明朝、出陣いたします」
直政は息を呑んだ。
「……家康公の許しは?」
「不要にございます」
新太は静かに、しかし断固として言った。
「若殿の初陣を、ただの賊討伐で終わらせるには惜しゅうございます。我らが為すべきは、天下へ井伊の武威を刻むことにございます。ただし――その采配の一切、この新太にお預け願いたい」
直政は短く黙したが、もう迷いはなかった。
「……任せる。井伊の武勇、存分に見せつけてやろうぞ」
翌朝。
井伊谷城から赤備えが、誰に知られることもなく静かに出陣した。
戦は、もはや戦とは呼べぬほど一方的だった。
新太は、野盗化した残党が潜む山砦の裏手に広がる地形、そして彼らの油断し切った心理を見抜き、二つの部隊を完全に噛み合わせて配置した。
「―――行けぇ!!」
まず正面。
若き「赤鬼」井伊直政が、その苛烈な武勇で砦の前を突破した。常軌を逸した突進力と薙ぎ倒す槍捌きは、敵の注意を完全に奪い、守りを一点へと凍り付かせた。
そして――その刹那。
誰も見ていなかった崖上から、黒い影が音もなく滑り落ちる。
「―――今だ」
「黒鬼」新太率いる別働隊が、砦の最も無防備な背後から雪崩れ込んだ。
光と影。
表と裏。
二つの鬼の槍が絡み合い、敵は瞬く間に挟撃され、壊滅した。
この日の戦果は、井伊谷だけでは収まらなかった。
「井伊の赤鬼」と「黒鬼」の名は、瞬く間に徳川家中へと広まっていく。
浜松城で報せを受けた家康は、地図上の井伊谷の駒を指先で静かになぞった。
(……これでもう問題なく、井伊を徳川の重要な戦力として使うことが出来るな)
来るべき秀吉との大戦に向けて、確かな戦力が生まれたことを示す、これ以上ない狼煙であった。




