第66節『武田の不信』
第66節『武田の不信』
井伊谷で源次たちの調略が動き出す一方、北の砦の空気は、日ごとに重く淀んでいった。
あの訓練場での小さな失態以来、新太を取り巻く眼差しは、確実に変わっていた。
武勇でなら右に出る者のない若武者。その評価はまだ消えてはいない。
だが――そこに「陰」が混じり始めていた。
彼の葛藤を見抜いた上官は、ことあるごとに声をかけてきた。いや、声をかけるというより、皮肉を浴びせてくるのだ。
「おお、若様。今日は槍を取り落とされませぬかな?」
「御館様の御威光がなければ、ただの小僧よな」
広場に響くその言葉に、部下たちの血は沸き立った。
だが、誰一人として声を上げられない。上官と若様――武田家における公式な立場は歴然としていた。新太に忠義を尽くす兵であっても、声を挟めば自らが処罰を受けるのは目に見えていた。
新太は唇を噛み、黙って槍を磨いた。反論すれば、それこそ「忠誠心がない」と言い募られる。
砦の中は、今や見えざる檻。敵は外にあるはずなのに、息苦しさは内から迫っていた。
軍議の夜。
蝋燭の炎が揺れる座敷に、十余名の将が並んだ。井伊との戦況は膠着している。議題は、打開策。
新太は静かに座し、耳を傾けていた。
だが、議論の最中――あの上官が立ち上がった。
「この砦の守りが堅固なのは結構なこと」
低く通る声が、座敷の空気を支配する。
「しかし、守ってばかりでは武田の武名は廃る。近頃、一部の将に戦意の衰えが見られるのは、由々しき事態と存ずる」
一部の将――誰のことを指しているか、明白だった。
場の視線が、新太へと流れる。部下たちがざわめき、思わず声を上げそうになった。
だが新太は、目で制した。ここで彼らが反発すれば、己の立場をさらに悪くするだけだ。
上官は、狩人が獲物を追い詰めるように言葉を重ねる。
「ここは一つ、その迷いを断ち切るためにも、敵地に深く入り込み、武田の武威を示すべきかと」
沈黙が広がった。それは提案の形を取りながら、事実上の懲罰だった。
誰も反論しない。いや、できないのだ。この軍議を支配しているのは、武田家に代々仕える譜代の重臣たち。彼らの心には、昨年起きた「義信事件」の傷が今も深く残っていた。
信玄公の嫡男であった武田義信様は、信玄公と意見を違え、謀反の疑いをかけられて廃嫡、そして非業の死を遂げられた。以来、武田家中は跡目争いを巡って見えざる亀裂が走り、譜代の者たちは諏訪家から来た勝頼様や、この新太のような素性の知れぬ若者が台頭することを、何よりも恐れ、そして憎んでいたのだ。
他の将にとって、新太は御館様の御落胤とはいえ、正式な家督争いにも加われぬ半端な存在。この場で彼が討たれるなら――むしろ好都合とすら思う者もいた。
座敷の空気が、ひたひたと新太を押し潰していく。
そして、命が下された。
「井伊領の奥深くにある村――その兵糧を焼き払え」
静かながら冷徹な声。それは「死地へ赴け」という命令にほかならなかった。
新太の胸に、怒りが燃え上がる。
井伊領に踏み込むことは危険極まりない。しかも、これまで彼が貫いてきた「領民を虐げぬ」という信条を、真っ向から踏みにじる行為だ。
それでも――。
「……御意」
低く、絞り出すように答えるしかなかった。
武田の将である以上、命令を拒むことはできぬ。
軍議は滞りなく終わった。他の将たちは、何事もなかったかのように席を立つ。ただ一人、新太を残して。
蝋燭の炎が揺れ、座敷に影が伸びる。新太は拳を震わせた。
「……俺を、殺す気か」
声は低く、誰にも届かない。
だが、その怒りは確かに燃え上がっていた。
上官への憎しみ。信条を踏みにじる命令を下した武田への失望。そして――自らの無力さ。
心は、確実に武田から離れつつあった。
砦の冷気の中で、彼はひとり、己の拳を固く握りしめた。