第65節『新太の葛藤』
第65節『新太の葛藤』
井伊谷城で直虎たちが密かに動き始めている頃、北の砦でもまた、見えざる変化が起きていた。
砦は、まだ雪解けの余韻を残す風に包まれていた。乾いた冷気が石垣を舐め、訓練場に響く掛け声を吸い込んでいく。
新太は槍を握り、十人の兵を相手に立っていた。
彼の動きは相変わらず鋭く、武者たちは次々と木槍を弾き飛ばされる。その一撃一撃は重く、まるで鉄をも叩き折るような迫力があった。
「さすが我らが若様だ!」「これなら井伊など敵ではござらん!」
部下たちの声が高まる。彼らにとって新太は、戦の象徴であり、絶対の柱だった。たとえ甲府の侍たちが彼の出自を蔑み、正式な信玄の子として認めず、厄介払いのようにこの辺境の砦へ追いやったとしても、この砦にいる者たちにとって、彼こそが命を預けるに足る唯一の「若様」なのだ。
そして、この北の砦こそが、彼の出自を最も効果的に利用できる場所だった。彼の母が井伊の者であるという噂は、武田家中では彼を貶めるための陰口だが、見方を変えれば、井伊の者たちの心を揺さぶるための最上の武器ともなり得る。新太自身がそれを望むと望まざるとにかかわらず、武田家はこの因縁すらも戦略の一環として利用していたのだ。
だが、その背を見つめる兵たちは、同時に気づいてもいた。時折、主君の瞳がふと遠くを見つめることを。その一瞬の翳りが、誰にも説明できぬ不安を生んでいた。
夜。
砦の灯火が消え、人々が寝静まる頃。
新太は一人、槍の手入れをしていた。刃を布で磨くたび、月光が冷たく反射する。
ふと、あの時の光景が蘇る。火の粉舞う通路、短刀を構えたあの男――源次。
「あんたは本当に、己が何者であるかを知った上で、その刃を振るっているのか?」
耳の奥に、今もその声が響く。新太は無意識に槍を止め、天を仰いだ。
(……なぜ、あの男はあんなことを)
あの問いは、ただの挑発ではなかった。鋭く心臓を抉り、長年閉ざしていた扉を無理やりこじ開けるような重みを持っていた。
――井伊家。母を辱めた家。自分の憎しみのすべてを注ぎ込んできた宿敵。
(俺は……井伊を憎むために生きてきたはずだ)
しかし、源次の眼差しは違った。あれは敵意ではなく――むしろ、何かを確かめようとする眼だった。
(……俺の奥底を……見透かすような……)
新太の胸に、初めて「疑問」が芽生える。これまで絶対悪だと信じてきた井伊。だが、その中に、己の存在の根幹を問いかけてくる者がいる。その事実が、心を乱してならなかった。
翌日。砦の訓練場。
新太は再び部下と槍を交えていた。彼の槍筋は鋭く、相手を寄せ付けぬはずだった。
だが、ふとした瞬間――部下の踏み込みに、源次の姿が重なった。
「……!」
一瞬、心が逸れた。槍の軌道がわずかに鈍り、木槍が肩を打つ。
「っ……!」
訓練場に小さなざわめきが走る。部下が慌てて頭を下げた。
「若……! 申し訳ございませぬ!」
新太は「気にするな」と短く答えた。しかし、自分の失態を痛感していた。これまで一度も見せたことのない隙――その原因は、間違いなく心の中にあった。
視察に来ていた武田の上官が、冷たい声で言った。
「……ほう。井伊の女地頭一人に手こずり、ついには槍も鈍ったか」
その声は、広場にいる全員に聞こえるように響いた。新太の胸を、刃のように抉る。
「……」
反論はしなかった。言葉を返すことは、むしろ己の弱さを晒すことになる。ただ、唇を強く噛み、血の味を感じながら拳を握るしかなかった。
部下たちは主君を庇うように黙り込んだ。だが、彼らの心にも小さな不安が広がる。
――あの新太様に、迷いがあるのではないか。
夜。またも一人。
新太は、焚き火の前で膝を抱え込んでいた。
風が吹き込み、火が揺らめく。
「……俺は、何のために戦っている?」
問いが、胸に浮かぶ。これまでの答えは、単純だった。
――母の無念を晴らすため。――井伊を滅ぼすため。
だが、今は、その答えに確信が持てない。
(……父上に認められるためか? 武田のためか……? いや、違う……)
彼は両手で顔を覆い、呻いた。
(俺は……母のために……母のためだけに……)
だが、その「母のため」という理由さえも、揺らいでいる。源次の言葉が、心の奥を突き刺す。
あの眼差しは、まるで「お前の母の真実を知っている」と告げているかのようだった。
(……もし、あの男が……俺の母のことを知っているとしたら……?)
炎が揺れ、影が長く伸びる。新太の心に、恐怖にも似た感情が広がっていた。
これまでの戦いは、自分の正義の上に築かれてきた。だが、その正義の土台そのものが、今、崩れかけている。
(源次……お前は、本当に井伊の者なのか? それとも……俺の存在を知る、別の何者なのか……?)
声は夜風に吸い込まれ、誰にも届かない。
ただ、彼の胸に確かに芽生えたものがあった。それは「迷い」であり、同時に「渇望」だった。
――真実を知りたい。
その欲求が、新太を孤独へと追い込み、同時に――源次の調略が入り込む最大の隙となりつつあった。