第64節『危険な賭け』
第64節『危険な賭け』
直虎の私室での密議から数日、井伊谷城では奇妙な静けさと共に、水面下で三つの流れが動き出していた。
源次は、近侍としての務めの傍ら、与えられた自室で密かに準備を進めていた。卓上には、井伊領内の古寺や旧家の場所を記した粗末な地図が広げられている。
「……この辺りに古寺が多い。逃げ延びた者、隠れた者がいるなら、この寺の裏手だ」
小さな炭火の火鉢の前で、源次は墨をすり、地図の端に印をつけていく。しかし、印をつけ終えると、その紙を必ず火鉢に投げ入れ、燃え残りの灰を木箸で崩した。
(記録は残せん。残せば、誰に見られるかわからんからな)
彼は一つの情報を得るごとに、紙を燃やすことを習慣にしていた。城に仕える近侍としては異様な振る舞い。だが、それが最も安全なやり方だと信じていた。
その頃、重吉は城下を歩いていた。
腰を痛めたふりをし、杖をつきながら、ゆっくりと往来を歩く。古くから仕える古老たちは、いまや現役を退き、城下の外れや寺の庵でひっそりと暮らしている。
重吉はそうした者たちのもとを、一軒一軒訪ね歩いていた。
「昔のことを、少しお聞かせ願えぬか……」
女が追われた日の真相を知る者がいるはずだと、重吉は諦めずに探していた。
(源次殿の目は侮れぬ。あの御方が「女の追放」の真相に拘るのには訳がある。ならば、わしは耳を貸すのが役目よ)
彼はすでに戦場に立てる身ではない。だからこそ、耳と口を使う。それが老兵として最後の働きだと心に決めていた。
直虎は、城の奥にある書庫に籠もっていた。
油の匂いが籠る灯火の下で、積み重なる古文書をめくる。
(……ここに答えがあるはずじゃ。忘れられた名。抹消された出来事。その全てが)
指先は墨で黒ずみ、目は赤く充血している。だが直虎は顔を上げぬ。この書庫の中では、彼女もまた一人の探究者にすぎなかった。
三人の間では、直接のやり取りはほとんどなかった。だが、小姓を通じて、ごく短い言葉の文が交わされた。
「西の古寺、無人」「古老ひとり、病に伏す」「古き記録、欠けあり」
ただそれだけ。だが、そのわずかな断片を組み合わせ、三人はひとつの像を結び上げていった。
彼らの計画は、音もなく胎動を始めていた。
中野直之は、その異変に最初に気づいた。
(……おかしい。近頃の城はどこか落ち着かぬ)
直虎様は夜な夜な書庫にこもる。そして――最大の元凶は、あの源次だ。
直之は目撃していた。源次が紙に何事かを書きつけ、すぐに火鉢で燃やす姿を。その横顔は、まるで何かを隠そうとする盗人のように映った。
(何をしておる……? あれはただ事ではない。燃やすほどの文――隠さねばならぬ秘密があるということだ)
直之の胸に黒い疑念が芽生える。
「……井伊家を守るのは我ら重臣の務め。ならば、動かぬわけにはいかぬ」
彼は信頼のおける部下数名を呼び寄せ、密かに命じた。
「些細なことでもよい。源次と、彼と内通する者、そして直虎様のご様子、逐一報告せよ」
日を置かずに、報告は集まってきた。
「源次は徳川家臣の人となりや岡崎の産物を調べ、紙に記しては燃やしております」「老兵が古老のもとを訪ね歩き、昔話を聞き集めておる様子。源次の息がかかっているものと見られます」「直虎様は先代様以前の記録を漁っておられます」
一つ一つは取るに足らぬ行為。だが、直之の胸の中では、それが一つの像に変わっていった。
(源次が徳川のことを調べているのは、来るべき同盟交渉のためであろう。それは分かる。だが、なぜその記録をすぐに燃やす必要がある? なぜ直虎様までが、まるで示し合わせたように過去の記録を漁っているのだ?)
直之の疑念は深まる。
(……おかしい。徳川への備えは、あくまで表向きの口実。その裏で、あの男は直虎様を動かし、井伊家の古き記録を洗い出し、何かを企んでいる。そうだ、あの漁師上がりが直虎様を誑かし、井伊家の記録――あるいは弱みを手中に収めんとしているのだ。これは……井伊を乗っ取ろうとする謀反の兆しに他ならぬ!)
直之の眼差しは、鋭い刃のごとく冷たくなった。
やがて、その疑念は抑えきれぬほどに膨れ上がる。直之は決断した。
(もはや直接問いただすしかあるまい。直虎様に……)
彼は、静まり返った夜の奥御殿へと足を運ぶ。
障子の向こうでは、灯火がゆらめき、古文書をめくる音がかすかに響いていた。
直之は深く息を吸い、障子を叩いた。
「……直之にございます」「入れ」
短く返る声。障子を開けると、直虎が机に向かい、筆を持ったまま振り返った。
「何用じゃ、直之」
「直虎様」
直之は、言葉を選ばずに放った。
「近頃、あの漁師上がりの者と、何を企んでおられるのですか」
部屋の空気が、一瞬にして張り詰めた。
直虎は筆を置き、静かに立ち上がる。
「……家の安泰を、じゃ」
その声は冷たく澄み、直之の胸を刺した。
「そなたが心配せずとも、全ては私の差配の内にござる」
それは説明ではなかった。ただ、信じよ、と突き放すだけの言葉だった。
直之の瞳が揺れる。忠臣として、信じたい。だが、井伊を背負う武士として、その言葉では納得できぬ。
「……分かりました」
低く返す声には、もはや従順さはなかった。
「ならば、私も私なりのやり方で、井伊家をお守りするまで」
その言葉を残し、直之は深く頭を下げることなく退室した。
障子が閉まると、直虎はその場に膝をつき、深いため息を洩らした。
(すまぬ、直之……)
忠臣を欺き、心を痛める己を、彼女は強く憎んだ。だが同時に、覚悟を固めた。
この危険な賭けを進めねば、井伊家は必ず滅ぶ。
背後からは、亀裂の走る音が聞こえるような気がした。それはもはや修復不可能な、決定的な断絶だった。