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第63節『調略の提案』

第63節『調略の提案』

 「……ならば、我らが為すべきは何か」

 直虎の問いは、部屋に漂う緊張をさらに濃くした。

 障子越しの夜風が、蝋燭の炎をわずかに揺らす。

 源次は黙したまま、拳を膝に置いた。心の奥では答えが既に決まっていた。

 だが、それを口にすれば、井伊家の命運をも揺るがす。

 一瞬の逡巡。そして、深く息を吐き出す。

 「……彼を、こちらに引き込むのです」


 その言葉が落ちるや、直虎の眉がぴくりと動いた。

 「……敵の猛将を寝返らせる、と申すか」

 源次は視線を逸らさず、真っ直ぐに直虎を見据えた。

 「はい。武田から寝返らせ、井伊の刃として迎え入れるのです。彼の力を敵に回すのではなく、我らの味方として振るわせる――これこそが、最も確実に井伊を守る道にございます」

 その言葉の意味を、直虎は静かに噛みしめた。

 もし成功すれば、戦況は一変する。だが失敗すれば――井伊家は武田と新太の両方から憎しみを買い、滅亡は避けられぬ。まさしく、禁断の選択肢。


 しかし直虎は、ただ瞳を閉じ、沈思した。やがてその唇がわずかに動く。

 「……面白い」

 源次は息を呑んだ。

 直虎は目を開き、その瞳には領主としての厳しさと、賭け師のような強靱な決意が宿っていた。

 「続けてみよ。源次、おぬしの策を」


 部屋の空気が一変する。

 源次は姿勢を正し、口を開いた。

 「まず、彼の憎しみの根源を断ち切らねばなりません。すなわち、彼の母にまつわる『誤解』を解き、その真実を証明すること。これなくしては、我らの言葉など戯言と一蹴されましょう」

 直虎が問い返す。

 「だが……証拠など、どこにある? 城内の公式な記録に、そのような女中の名は見当たらぬ」

 源次は頷く。

 「ええ。記録は、意図的に消されたのでしょう。ですが、文字に残らずとも、人の記憶には影が残るもの。公式の記録ではなく、古老たちの口伝や、寺に残る過去帳にこそ、真実の欠片が眠っているはずです」

 直虎も深く頷いた。「うむ……人の心と記憶、それこそが、消そうとしても消し切れぬ史実の残滓」


 源次の頭の中に、道筋が浮かんでいく。

 第一に――母の存在を示す証拠を掘り起こす。

 第二に――それを確かな形で繋ぎ合わせ、物語として再構築する。

 第三に――新太に直接届け、彼の心を揺さぶる。

 ただし――どれも容易ではない。

 「……しかし、難しさは計り知れませぬ。証拠を得るにも、時間と忍耐が要る。ましてや、それを敵将にどう届けるか……」

 直虎が静かに言葉を継ぐ。

 「戦場では余裕がない。書状も、彼が読まずに捨てれば終わり。ならば……直接、言葉で伝える機会を設けねばなるまい」

 源次は深く頷いた。

 「はい。……その役目、私が担います。また、あの砦に行くだけのこと」

 「命を捨てに行く覚悟が要るぞ」

 源次は小さく笑んだ。

 「承知の上です」

 (むしろ……この謎を解くために、俺はこの時代に呼ばれたのかもしれない)

 直虎は黙ってその言葉を聞き、やがてゆっくりと頷いた。


 「……よし。ならば役割を分ける」

 直虎は立ち上がると、小姓を呼び、一言命じた。「重吉を呼べ」と。

 この複雑な任務を遂行するには、源次の知恵だけでなく、井伊谷の隅々まで知り尽くした老兵の経験が必要不可欠だと、彼女は判断したのだ。

 ほどなくして現れた重吉に、直虎は簡潔に命を下した。

 「重吉。そなたには、源次の手足となってもらう。そなたの人脈を駆使し、古老や寺社に残る記憶を探り出せ」

 重吉は驚きながらも、事の次第を察し、深々と頭を下げた。「御意」

 直虎は続ける。

 「私は、井伊家に伝わる古文書を再び洗い直し、消された痕跡を探し出す」

 そして、最後に源次に向き直った。

 「そして源次、そなたには二重の任務を課す。一つは、表の顔として徳川の内情を探ること。もう一つは、その道中で裏の顔として『追放された女』の痕跡を掘り起こすこと」

 それは、まさしく二重の謎を追う「二重スパイ」の道だった。

 ――徳川と新太。

 二つの巨大な謎を同時に解かねばならぬ。

 源次の胸に、不安と同時に、奇妙な昂ぶりが湧き上がる。

 (歴史の謎を解き明かす……これこそ、俺の役目なのかもしれない)

 蝋燭の炎がゆらりと揺れた。

 それは、新たな冒険の始まりを告げる狼煙のように見えた。

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