表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/300

第62節『分析』

第62節『分析』

 数日後の夜、源次は城下の隠れ家で重吉と膝を突き合わせていた。

 灯火の下、卓上には井伊谷周辺の地図が広げられている。

 「……やっぱり、力攻めは愚策だな」

 重吉は腕を組み、低い声で唸った。源次から砦の様子を聞き、彼は即座に結論を下していた。

 「だよな。じゃあどうする? 直虎様は『何とかせよ』の一点張りだ」

 源次は静かに首を振った。

 「金か、土地か、あるいは高い身分か……。そんな常識的な手じゃ、あの男は動かない」

 「ほう。では何が要る」

 源次は一呼吸置いて言った。

 「彼に必要なのは、物や地位じゃない。おそらく……真実だ」

 その言葉に、重吉は怪訝そうに眉をひそめた。


 源次は、あの日の一騎打ちを語り始めた。

 「俺が奴の出自について鎌をかけた時……あいつの目は、明らかに揺らいだんだ。あれは、ただの動揺じゃない。自分の存在そのものに、デカいコンプレックスを抱えてる奴の反応だ……」

 源次は拳を握りしめ、言葉を続ける。

 「彼は、自らの出自に関して、何か大きな影を抱えている。そして、その影は……井伊家と無関係じゃないかもしれない」

 静かな部屋の空気が、一気に張り詰める。

 重吉が低く問う。「……どういうことだ?」

 源次は、転生前の記憶を呼び起こすように、目を伏せた。

 「古文書に、ちらっと書いてあったんだ。名もなき女が、井伊家から追放されたって話が……。時期が、新太の生まれと一致する」

 源次ははっきりと言った。

 「彼の母親は、かつて井伊の領内にいた女性――その可能性が高い」

 部屋に衝撃が走った。重吉は思わず息を呑む。

 源次はさらに続ける。

 「奴は思い込んでるんじゃないか? 自分の母親は井伊家によって不幸にされた、と。だから、個人的な恨みで俺たちを憎んでいるんだ」


 静かに、しかし確信を帯びた口調。

 重吉は言葉を失い、しばし沈黙した。彼は目を閉じ、記憶の底を探るように考え込む。

 「……いや……待てよ。先代様――直虎様の御父君の頃。奥向きで、確かに騒ぎがあったと聞いたことがある」

 「!」

 「側室の一人が、不義の子を身ごもったとかで……。詳しくはわからぬ。ただ、女中の一人が城を追われた、と……」

 源次の心臓が高鳴った。ピースが、かちりと音を立ててはまる。

 「……新太は、その子か」

 重吉の胸に、冷たい戦慄と熱い衝撃が同時に走った。

 新太の憎しみは、大義のためではない。母を貶められたことへの、血の記憶から来る復讐。

 「……だとすれば、我らが彼を敵に回したのも、運命の悪戯というほかあるまい」

 だが、源次は強い眼差しで言った。

 「いや、逆だ。もし誤解なら、解けばいい。彼が敵である理由が血の因縁に過ぎないなら……それを解きほぐせば、味方に引き込める可能性がある」

 重吉の目に、新たな光が宿る。「確かに……己の誇りと母の名誉。それを取り戻す道を示せば……あの男とて耳を傾けぬはずがない」

 二人の心に、初めて「希望」の像が浮かんだ。

 新太を調略する道筋。それは金でも土地でもなく――母にまつわる「真実」だったのだ。


 翌日。直虎の私室にて、源次は検討の結果を報告していた。

 障子越しの光が、二人の真剣な横顔を照らしている。

 「――以上が、我らの導き出した結論にございます。新太を動かす鍵は、彼の母にまつわる真実かと」

 直虎はしばし沈黙した。その瞳は、報告書の一点を見つめたまま動かない。

 やがて、彼女は顔を上げ、源次を真っ直ぐに見据えた。

 「……つまり、そなたは申すのか。我が父の代に起きた醜聞を掘り起こし、それを敵将に突きつけよ、と」

 声は氷のように冷たかった。それは井伊家の当主として、先代の名誉を守るべき立場からの当然の反応だった。

 源次は深く頭を下げた。

 「恐れながら。されど、それこそが唯一の道と存じます」

 「もし、その醜聞が真であったなら? 父が、真に非道な行いをしていたとしたら? 我らは自らの手で、井伊家の誇りを地に堕とすことになるやもしれぬのだぞ」

 直虎の声は震えていた。領主としての責務と、娘としての情が、彼女の中で激しくせめぎ合っている。

 源次は顔を上げ、静かに、しかし力強く言った。

 「たとえそうだとしても、です。真実から目を背ければ、井伊に未来はございません。誇りを守るために滅ぶ道より、たとえ泥をすすってでも生き残る道を選ぶべきと、愚考いたします」

 その言葉に、直虎の瞳が揺れた。

 やがて彼女は、ふっと息を吐き、弱々しく笑った。

 「……そなたは、いつもそうじゃな。私が最も聞きたくない言葉を、容赦なく突きつけてくる」

 だが、その声に棘はなかった。むしろ、己の覚悟を問うてくれる懐刀への、複雑な信頼が滲んでいた。

 直虎は蝋燭の炎を見つめ、低く囁いた。

 「……ならば、次にすべきは、その女の痕跡を追うこと。新太の憎しみを解くために……忘れられた過去を掘り起こす」

 炎がゆらりと揺れた。二人の決意を照らすように。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ