第62節『分析』
第62節『分析』
数日後の夜、源次は城下の隠れ家で重吉と膝を突き合わせていた。
灯火の下、卓上には井伊谷周辺の地図が広げられている。
「……やっぱり、力攻めは愚策だな」
重吉は腕を組み、低い声で唸った。源次から砦の様子を聞き、彼は即座に結論を下していた。
「だよな。じゃあどうする? 直虎様は『何とかせよ』の一点張りだ」
源次は静かに首を振った。
「金か、土地か、あるいは高い身分か……。そんな常識的な手じゃ、あの男は動かない」
「ほう。では何が要る」
源次は一呼吸置いて言った。
「彼に必要なのは、物や地位じゃない。おそらく……真実だ」
その言葉に、重吉は怪訝そうに眉をひそめた。
源次は、あの日の一騎打ちを語り始めた。
「俺が奴の出自について鎌をかけた時……あいつの目は、明らかに揺らいだんだ。あれは、ただの動揺じゃない。自分の存在そのものに、デカいコンプレックスを抱えてる奴の反応だ……」
源次は拳を握りしめ、言葉を続ける。
「彼は、自らの出自に関して、何か大きな影を抱えている。そして、その影は……井伊家と無関係じゃないかもしれない」
静かな部屋の空気が、一気に張り詰める。
重吉が低く問う。「……どういうことだ?」
源次は、転生前の記憶を呼び起こすように、目を伏せた。
「古文書に、ちらっと書いてあったんだ。名もなき女が、井伊家から追放されたって話が……。時期が、新太の生まれと一致する」
源次ははっきりと言った。
「彼の母親は、かつて井伊の領内にいた女性――その可能性が高い」
部屋に衝撃が走った。重吉は思わず息を呑む。
源次はさらに続ける。
「奴は思い込んでるんじゃないか? 自分の母親は井伊家によって不幸にされた、と。だから、個人的な恨みで俺たちを憎んでいるんだ」
静かに、しかし確信を帯びた口調。
重吉は言葉を失い、しばし沈黙した。彼は目を閉じ、記憶の底を探るように考え込む。
「……いや……待てよ。先代様――直虎様の御父君の頃。奥向きで、確かに騒ぎがあったと聞いたことがある」
「!」
「側室の一人が、不義の子を身ごもったとかで……。詳しくはわからぬ。ただ、女中の一人が城を追われた、と……」
源次の心臓が高鳴った。ピースが、かちりと音を立ててはまる。
「……新太は、その子か」
重吉の胸に、冷たい戦慄と熱い衝撃が同時に走った。
新太の憎しみは、大義のためではない。母を貶められたことへの、血の記憶から来る復讐。
「……だとすれば、我らが彼を敵に回したのも、運命の悪戯というほかあるまい」
だが、源次は強い眼差しで言った。
「いや、逆だ。もし誤解なら、解けばいい。彼が敵である理由が血の因縁に過ぎないなら……それを解きほぐせば、味方に引き込める可能性がある」
重吉の目に、新たな光が宿る。「確かに……己の誇りと母の名誉。それを取り戻す道を示せば……あの男とて耳を傾けぬはずがない」
二人の心に、初めて「希望」の像が浮かんだ。
新太を調略する道筋。それは金でも土地でもなく――母にまつわる「真実」だったのだ。
翌日。直虎の私室にて、源次は検討の結果を報告していた。
障子越しの光が、二人の真剣な横顔を照らしている。
「――以上が、我らの導き出した結論にございます。新太を動かす鍵は、彼の母にまつわる真実かと」
直虎はしばし沈黙した。その瞳は、報告書の一点を見つめたまま動かない。
やがて、彼女は顔を上げ、源次を真っ直ぐに見据えた。
「……つまり、そなたは申すのか。我が父の代に起きた醜聞を掘り起こし、それを敵将に突きつけよ、と」
声は氷のように冷たかった。それは井伊家の当主として、先代の名誉を守るべき立場からの当然の反応だった。
源次は深く頭を下げた。
「恐れながら。されど、それこそが唯一の道と存じます」
「もし、その醜聞が真であったなら? 父が、真に非道な行いをしていたとしたら? 我らは自らの手で、井伊家の誇りを地に堕とすことになるやもしれぬのだぞ」
直虎の声は震えていた。領主としての責務と、娘としての情が、彼女の中で激しくせめぎ合っている。
源次は顔を上げ、静かに、しかし力強く言った。
「たとえそうだとしても、です。真実から目を背ければ、井伊に未来はございません。誇りを守るために滅ぶ道より、たとえ泥をすすってでも生き残る道を選ぶべきと、愚考いたします」
その言葉に、直虎の瞳が揺れた。
やがて彼女は、ふっと息を吐き、弱々しく笑った。
「……そなたは、いつもそうじゃな。私が最も聞きたくない言葉を、容赦なく突きつけてくる」
だが、その声に棘はなかった。むしろ、己の覚悟を問うてくれる懐刀への、複雑な信頼が滲んでいた。
直虎は蝋燭の炎を見つめ、低く囁いた。
「……ならば、次にすべきは、その女の痕跡を追うこと。新太の憎しみを解くために……忘れられた過去を掘り起こす」
炎がゆらりと揺れた。二人の決意を照らすように。