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第61節『報告』

第61節『報告』

 夜明けの井伊谷城。

 城内は、昨夜の見張り所への夜襲の成功に沸き立っていた。小規模な勝利ではあったが、武田に一矢報いたという事実は、沈滞していた兵たちの士気をわずかに高めていた。

 しかし、当主である直虎の私室には、張り詰めた空気が満ちていた。

 彼女は、前夜から一睡もせずに帰還を待ち続けていた。陽動部隊は無事に戻った。だが、真の刃である源次は、まだ闇の中だ。もし彼が戻らねば、この陽動はただの無謀な挑発となり、井伊家は武田の本格的な報復を受けることになる。

 (源次……戻れ……!)

 その祈りが通じたかのように――伝令が「源次殿、ただ今ご帰還!」と告げる。


 山間に漂う朝靄の中を、ひとりの影がゆっくりと城門へ向かってきた。

 泥に塗れ、着物は裂け、血に濡れている。足取りは重く、まるで亡者がふらつきながら城へと帰還するかのようであった。

 源次だった。

 城門の兵が彼の姿を認め、驚愕と安堵の声を上げる。

 「げ、源次殿! ご無事に……!」

 だが源次は答えず、ただ片手で短刀を杖のようにつき、もう一歩を踏み出すことだけに集中していた。


 駆けつけた直虎の目に、その満身創痍の姿が映る。

 「源次!」

 直虎の声が震える。彼女は普段、城主として冷静でいようと心掛けている。だが、この瞬間ばかりは感情を抑えられなかった。

 「……戻ったか、源次。よくぞ……」

 直虎は深く息をつき、こみ上げる涙を必死に堪える。

 「まずは、傷の手当を……」

 しかし源次は首を振る。

 「いえ……直虎様に、今すぐ申し上げねばならぬ儀がございます。それに、陽動のおかげで命拾いいたしました。御配慮、かたじけなく存じます」

 (陽動! 俺を助けるための陽動! 推しが俺だけのために軍を動かしてくれた! このご恩、万死に値する! ああ、最高すぎる!)

 声は掠れ、体は限界に近かった。それでも彼は、戦場から持ち帰った「真実の重さ」を直感していた。


 私室に通され、白湯が与えられる。

 温かい湯が喉を通り、身体の芯に沁み渡る。その一瞬、源次はようやく生の実感を取り戻した。

 だが休息は短い。直虎が心配と懸念の入り混じった表情で口を開いた。

 「そなたが無事で何よりじゃ。だが……私の独断で軍を動かしたことで、武田をいたずらに刺激してしまったやもしれぬ。報復が恐ろしい」

 源次は静かに頷いた。

 「ご懸念はごもっともです。しかし、この一手があったからこそ、次の一手が生きてまいります」

 その力強い言葉に、直虎はわずかに目を見開くと、覚悟を決めたように促した。

 「……聞かせよ、源次。北の砦で、何を見た」

 促され、源次は砦の物理的な情報を淡々と報告した後、深く息を吸った。

 「……しかし、それ以上に……重要な儀がございました」

 直虎の視線が鋭くなる。場の空気が、ぴたりと張り詰めた。

 「砦にて、私は新太と遭遇いたしました」

 直虎の瞳が大きく揺れる。「……なに?」

 「しかも、ただ戦場で刃を振るう姿だけではありませぬ。私は彼の、砦における日常を、この目で見ました」

 源次の声が、静かに、しかしひとつひとつを刻み込むように続く。

 「兵らは彼を『若』と呼び、親しみと敬意を込めて接しておりました。彼はその呼びかけを受け入れ、身分の差なく杯を交わし、笑い合っていたのです。兵らは心から彼を慕っておりました。恐怖や威圧で従っているのではなく、真に信を寄せている……」

 直虎の顔が強張る。

 「……まさか。あやつは『武田の赤鬼』と呼ばれた男ぞ……。そのような姿など……」

 「私も、そう信じておりました」

 源次は強い眼差しで答えた。「されど、実際に見たのです。戦場の鬼ではなく、人を惹きつける将としての姿を」

 直虎の胸がざわめく。その言葉は、彼女が抱いてきた「新太像」を根底から覆すものであった。


 源次は、最後の一撃を放つ。それは、昨夜彼が導き出した結論そのものだった。

 「直虎様。新太は、ただの敵ではございませぬ。彼は部下を家族のように思い、帰るべき『居場所』を求める、強い所属欲求を持っています。しかし同時に、その心の根幹は『己の出自』という一点の脆さの上に成り立っている。歴史上の多くの英雄がそうであったように、強さと脆さは表裏一体。力でねじ伏せるだけでは、決して勝てませぬ」


 沈黙が落ちた。

 直虎は深く腕を組み、瞳を閉じる。

 頭の中で、これまで築いてきた戦略図が崩れ去っていく。

 (暗殺すれば済む――そう思っていた。だが、人心を掴んだ男を斬っても、その心までは殺せぬ。兵も領民も、あの男を慕っている。ならば……)

 彼女の思考は、別の道を模索し始めていた。

 「……その信を裏切らせ、出自の脆さを突けば……逆に、こちらに引き込めるやもしれぬ」

 直虎の表情が変わる。驚愕から、冷徹な光へ。暗殺者の眼差しではなく、策士の眼差し。

 「源次、見事な働きであった。おかげで、道が見えたやもしれぬ」

 源次は、その意味をすぐには理解できなかった。だが直感した。

 直虎が「暗殺」という単純な手段を捨て、より高次の「調略」という戦いを選び始めたことを。

 彼女は冷静に告げた。

 「新太。あの男は、敵にして最大の障害。されど同時に、我らの未来を拓く変数ともなろう」

 部屋に満ちるのは、重苦しい沈黙と、新たな局面の予感だった。

 ――源次の報告は、ただの「情報」ではない。

 井伊の戦略そのものを変える、歴史を揺るがす「真実」だった。

 新たなる戦いの幕が、いま静かに上がろうとしていた。

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