第60節『持ち越された決着』
第60節『持ち越された決着』
短刀と槍。
月光を受け、刃の光が交錯する。
だが、その間には一人の影が立ち塞がっていた。
黒装束の闖入者。
顔を深く覆い隠し、性別すらわからぬ。ただ、その佇まいから滲み出る気配は――常人ではない。
源次は短刀を構えたまま、額に冷たい汗を浮かべていた。
(誰だこいつは!? 味方か? 敵か? いや……どちらでもない……!)
理屈では割り切れぬ、肌が総毛立つような存在感。まるで夜そのものが形をとり、二人の間に割って入ったかのようだ。
新太もまた、槍を構えた姿勢で動けずにいた。
武者としての直感が、無闇に突きかかることを拒ませていた。
(……何者だ……! 俺の砦に、いつの間にこれほどの手練れが二人も紛れ込んでいたというのか!?)
苛立ちが胸を焼き、喉を締めつける。槍を交える寸前までいった勝負を、横から無言で奪われた。武士としても、男としても、これ以上の屈辱はない。
だが、闖入者は一言も発さない。呼吸の音すら聞こえぬ。ただ、観察者のように両者を見据え、動かない。
時間が凍りついたような三竦み。緊張は極限に達し、汗が頬を伝う音すら響くかのようだった。
その静寂を、遠くからの怒号が破った。
「若――! 若はいずこにおわすか!」
声と共に、松明の光が暗闇を裂く。複数の足音が駆け寄ってくる。
通路に飛び込んできたのは、血相を変えた武田の伝令兵だった。
「若殿!」
伝令は、源次と闖入者の存在に一瞬だけ目を見開いたが、すぐさま新太の前に膝をつく。
「申し上げます! 井伊の本隊、ただいま動きあり! 夜陰に乗じ、我が見張り所の一つを強襲! すでに火の手が上がっております!」
言葉は簡潔に、要点のみ。混乱の最中にあっても、伝令の務めは速やかでなければならなかった。
新太の表情が一変する。
(……陽動か! この男を潜入させ、俺の注意を引きつけている間に本隊を動かす。井伊の地頭は女だと聞くが、見かけによらずえげつない手を使う!)
私闘の只中にありながら、頭の中では瞬時に情勢が天秤にかけられる。
(……まずい。このままでは砦全体が揺らぐ。俺がここで遊んでいる場合ではない……!)
源次はその変化を見逃さなかった。彼の胸には、新太とは全く異なる衝撃が走っていた。
(陽動!? 俺を無事に帰すために、直虎様が!? まじかよ…俺が潜入するって言った時、あんなに心配してたのに、その裏でこんな二手三手先を読んでたのか! 俺の知らないところで、俺のために軍まで動かしてくれてたなんて…推しが最高すぎて涙出る…! これがトップオタへのファンサってやつか!?)
新太の瞳の奥に燃える苛立ちと怒りも感じ取る。「今ここで突き殺されてもおかしくない」と、直感が告げていた。
新太は、激しく葛藤する。目の前の敵を討ち取りたい欲求と、武将として砦を守る責務。槍を握る右腕が、わずかに震えた。
「……ちっ!」
舌打ちが、通路に鋭く響く。新太は槍を振るうのではなく、その穂先を地面に下ろした。
「伝令! 俺もすぐに向かう!」
その声は、苛立ちを押し殺し、武将としての決断を貫いたものだった。
彼は去り際に、源次を振り返る。憎悪と執念を込めて、吐き捨てる。
「……貴様の命、今は預けておく。だが次に会う時が、貴様の最期だと思え」
言葉は決着の延期。そして未来への約束だった。
新太は伝令を従え、兵のもとへと駆け去っていく。
その背を、源次は刃を握りしめながら見送った。
(……助かったのか? いや、助けてもらったんだ…直虎様に!)
ふと気づけば、闖入者の姿も消えていた。音もなく、影のように闇に溶け込んで。
ただ、不気味な残滓だけが残り、源次の胸をざわつかせる。
(……あいつは、一体……。井伊の者か? それとも武田か? いや、どちらでもない。あの動き、あの気配……どこにも属さぬ影働きの一団。噂に聞く伊賀や甲賀の者か、あるいは……。いや、今は考えすぎだ。だが、覚えておかねばなるまい)
謎は深まるばかりだった。新太という存在。そして、言葉を発さぬ闖入者。
張り詰めた緊張から解放され、源次の膝は思わず折れかけた。
荒い息を整え、短刀を杖にして立ち上がる。
(俺は何のためにここに来た? そうだ、新太という男を見極めるために。討つためではなく、知るために来たんだ)
脳裏で、集めた情報が高速で再構築されていく。
(囲炉裏端でのあの姿……あれは偽りじゃない。彼は部下を家族のように思い、帰るべき『居場所』を求めている。現代心理学で言うところの承認欲求と所属欲求が極端に強いタイプだ)
(一方で、俺の問いに激昂したあの姿。彼のアイデンティティは『出自へのコンプレックス』という非常に脆い土台の上にある。そこを突かれれば、猛将の仮面は容易く剥がれ落ちる)
源次の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
(……見えたじゃないか。彼の強さと、そして弱点が。猛将・新太の攻略法は、武力じゃない。『情報』と『心理』でこそ崩せる。目的は、果たした)
決着はつかなかった。だが――生き延び、そして知るべきことは知ったのだ。
彼は傷ついた身体を引きずりながら、闇の中へと歩を進める。待ち受ける未来がいかなるものであろうとも。