第6節『託されたもの』
第6節『託されたもの』
炎は徐々に力を失い、村を覆っていた赤々とした光は、やがて黒煙と煤の帳に呑み込まれていった。耳を劈くようだった悲鳴や怒号も、遠ざかる兵の足音と共に消えている。ただ残ったのは、焦げた木と肉の臭い、湿った血の鉄臭さが混じり合う、耐え難い死の匂いだった。
源次は、崩れた土壁の傍らに腰を落とし、何も見ない目で虚空を眺めていた。燃え落ちた梁の影も、転がる人影も、彼にはすべて灰色にしか見えなかった。
心は凍りつき、感情というものはすべて霧散していた。
「……」
口を開いても声は出ない。ただ喉の奥にざらつく煙を感じるだけだった。
あれほど書物で読んできた「戦乱」「略奪」。歴史の中で、他人事として学んできたはずの光景。けれど実際にその只中に放り込まれた今、彼は怒りも悲しみも、恐怖さえも抱けない。ただ圧倒され、壊され、塵のような存在に還ったにすぎなかった。
──俺は、ただ見ているだけの傍観者だ。
心の奥底で、自分をそう規定する声がした。
兵たちの気配はすでに遠のき、村を襲った暴力の波は引いていった。耳を澄ませば、炎が木材を食むぱちぱちという音だけが虚しく残る。
その静けさに押されるように、源次は膝に力を込め、ゆっくりと立ち上がった。
足は重い。地面に根が張りついたかのようだった。それでも一歩を踏み出す。
「……爺さん」
口からこぼれた声は、酷くかすれていた。そこに感情はまだ宿らない。ただ、呼ばずにはいられなかった。
よろめくように、彼は歩き出した。焼け跡の間を、屍を避けるようにしながら。老漁師──彼を育ててくれた唯一の存在。その姿を探して。
かつて老漁師の小屋があった場所に近づいた時だった。瓦礫の陰で、何かが小さく動いた。
目を凝らす。そこにあったのは、すすけた衣をまとった老漁師の背だった。
「……爺さん」
安堵に似たものが胸に広がりかけた。生きていた。まだ、生きていた。
その瞬間──
「おい、何だ? 生き残りがいたか!」
低く荒い声が響いた。背筋が凍りつく。振り返ると、煤で顔を汚した一人の武田の足軽が立っていた。手には槍。
「……」
源次の体は動かなかった。頭で命令しても、筋肉が応じない。迫る死の気配に、ただ硬直する。
足軽は口の端を歪め、槍を構えて突進してきた。
──ああ、俺はここで死ぬのか。
不思議と抵抗の意志は浮かばなかった。灰色に沈んだ心は、死すらも受け入れようとしていた。
その時だった。
「源次ッ!」
鋭い声と同時に、強い腕が彼を突き飛ばした。視界が揺れ、地面に転がる。
次の瞬間、鈍い音が響いた。槍の穂先が肉を割く音。
「……!」
顔を上げる。そこに立ちはだかっていたのは老漁師だった。
槍の穂先は彼の腹に深々と突き立ち、背から血が噴き出している。
時間が止まったようだった。赤黒い鮮血が、炎の残り火を照らす中で飛沫を描いた。
「じ、爺さん──!」
声がやっと出た。喉を裂くような叫び。
老漁師の顔は苦痛に歪みながらも、どこか安堵したように源次を見つめていた。
足軽は槍を引き抜こうと力を込める。
──いやだ、やめろ!
源次の中で、麻痺していた何かが弾けた。
足元に転がる石を掴む。考えるよりも先に、体が動いていた。
「うああああッ!」
全身の力を込め、石を足軽の顔面に叩きつける。鈍い音。血が飛び散り、足軽が悲鳴をあげてのけぞった。
よろめきながら、奴は後ずさる。怯えた目で源次を見、舌打ちをすると仲間を呼びに行くように走り去った。
残されたのは、血を吐きながら崩れ落ちた老漁師と、震える源次だけだった。
「爺さん……爺さん!」
源次は駆け寄り、その体を抱きとめた。
老漁師の血が、どくどくと溢れ出し、源次の手を、腕を濡らしていく。生ぬるい感触。鉄臭さ。生命が流れ出ていく現実。
「だ、駄目だ……血が……!」
必死に傷口を押さえる。だが止まらない。手の隙間から、温かいものが逃げ続ける。
「源次……」
かすれた声が耳に届いた。
「わしのことは……いい……」
老漁師は荒い呼吸の合間に、必死に言葉を紡ぐ。
「お前は……生きろ……」
短い言葉。それだけだった。だが、それは命令であり、願いであり、祈りでもあった。
「やめろよ、そんな……俺なんかのために……!」
涙が溢れた。初めて、この世界で流す涙だった。
「俺は……何もできなかったんだ! ずっと見てるだけで……助けられなかった……! そんな俺のために死ぬなんて……!」
叫んでも、老漁師は首を振る。微かに、だが確かに微笑んで。
「源次……生きろ……」
その言葉と共に、体から力が抜けていった。
「爺さん! 爺さん……!」
何度呼んでも、答えは返らない。
源次の胸の奥で、何かが崩れ、そして同時に燃え上がった。
「……もう、傍観者じゃいられねえ」
震える声で呟く。涙を拭わず、彼は老漁師の亡骸を抱きしめた。
「爺さん……あんたは俺を庇って死んだ。だったら俺は、生きる。『源次』として、この命を背負って……責任をもって生き抜く」
握った拳に、爪が食い込むほど力を込める。
虚ろだった目に、炎のような光が宿った。
それは深い悲しみと共に、力強い決意の輝きだった。
灰色に閉ざされていた世界に、再び色が戻っていく。血の赤、涙の透明、炎の残光。
源次は、老漁師に託された死を胸に刻み、この瞬間、ようやく「当事者」として立ち上がったのだった。