第59節『槍を構える』
第59節『槍を構える』
夜風が石垣を撫で、笛のように細く鳴った。
その音すら、二人の間に張り詰めた静寂を際立たせる。
新太は、源次から放たれた言葉の衝撃を振り払うかのように、背負っていた槍を解き、その石突を地に突き立てた。
金属が石畳を打つ硬い響きが、冷えた夜気に鋭く突き刺さる。
月光を浴びた穂先は青白く光り、まるで月そのものを引き裂くように冴えていた。
対する源次は、腰に差した短刀を逆手に取る。
膝を軽く折り、低く沈んだ姿勢をとった。足先は石畳にぴたりと吸いつき、いつでも飛び込めるよう研ぎ澄まされた構え。
二人の間合いは、息一つで届くほどに近い。
にもかかわらず、どちらも踏み込まない。踏み込んだ瞬間に、死が決まるからだ。
新太の眼には激情が燃えていた。だがその激情の奥には、源次の問いかけによって抉られた動揺がまだ燻っている。
(こいつ……! なぜ俺の心の奥底を知るような口を利く……!? 何を知っているのだ! 消さねばならぬ! だが、斬る前に聞き出さねば……!)
殺意と、真実への渇望。相反する感情が彼の呼吸を荒くし、槍を握る掌には血が集まり過ぎている。
一方の源次は、じっと相手を見据えていた。その眼差しは冷ややかで、一切の迷いを含まない。
(まずい、完全に頭に血が上っている。だが……激情は隙を生む。冷静になれ、俺。相手の動きを見極めろ。焦るな。勝機は必ず訪れる)
沈黙が長く続き、時間そのものが引き延ばされたように思えた。
月は二人の頭上で静かに輝き、戦場を見守る唯一の証人のようだった。
そして――。
「うおおおおおっ!!」
新太の雄叫びが夜を破った。心の乱れを振り払うかのような絶叫と共に、彼は踏み込む。
槍が唸りを上げ、月光を裂いた。源次は紙一重でかわした。風圧だけで頬が切れる。
すぐさま二撃目。突きから返す穂先で横薙ぎ。それもまた、ぎりぎりで身を捩って躱す。
「速い……重い……! だが、荒い!」
源次の胸を冷や汗が流れる。一撃一撃が獣の咆哮のように荒々しく、だが心の乱れが槍筋をわずかに鈍らせ、本来の冴えを奪っていた。もし万全の状態の新太であれば、今の二撃で勝負は決していたはずだ。
穂先が石壁を叩き、火花が散った。硬い音が狭い通路に反響する。
源次は反撃を試みようとするが、新太の間合いがそれを許さない。槍の長さは圧倒的な優位を持っていた。短刀の間合いに踏み込む前に、幾度も鋭い穂先が襲いかかる。
突き、薙ぎ払い、繰り出し。その連撃はまるで嵐だった。
(速い……! くそ、このままでは削り殺される……!)
源次は体を翻し、最小限の動きで攻撃をかわす。それはまるで波間を縫う小舟のようだった。彼の漁師としての身体感覚が、ここで生きていた。
しかし、防戦一方。足は次第に後退を余儀なくされる。通路の壁が迫る。逃げ場がなくなる。
新太はそれを見逃さなかった。
「はあああああッ!」
怒号と共に、三度目の突きが走る。穂先が光の矢のようにまっすぐ源次の胸を狙った。
源次は咄嗟に半身を引き、壁際を滑るようにかわした。穂先は石壁を穿ち、火花と共に石片が飛び散る。
「くっ……!」
新太の眉間に皺が寄る。激情の中にも冷静さを取り戻しつつある。その眼差しは、獲物を逃さぬ猛禽のようだった。
源次の呼吸は荒い。肩が上下し、額に冷たい汗が滲む。
だが――その瞳だけは静かだった。
(まだだ……こいつの攻撃には、必ず揺らぎがある……)
源次は、わずかに後退の足を止めた。それは危険極まりない賭けだった。
新太はそれを挑発と受け取り、激情をさらに燃やした。
「ならば突き伏せるまでだァ!」
槍を中段に構え、全身の力を込めて突き出す。月光を背負ったその一撃は、まるで天を裂く雷光のごとく迫ってきた。
源次は退かない。わずかに半身になり、逆手の短刀を構え直す。
穂先が迫る瞬間、時間が引き延ばされたかのように遅くなる。
新太の渾身の突き――その後に必ず訪れる呼吸の乱れ。体勢が浮き、脇腹がわずかに空く。
「そこだ……!」
源次の心が叫ぶ。体を滑り込ませるように内側へ踏み込み、短刀を突き出す。
月光を反射した刃が、真っ直ぐに新太の脇腹へと吸い込まれていく――。
勝負は決したかに見えた。
だが、その瞬間。
二人の間に、突如として別の影が割り込んだ。
「……!?」
源次の目が見開かれる。短刀の切っ先は寸前で止まる。新太の突きもまた、途中で凍りついた。
割って入ったその影は、月明かりに照らされてなお、その顔を覆い隠していた。
だが、その存在感は圧倒的だった。
――何者だ?
源次も新太も、言葉を失っていた。
夜風が再び通路を抜ける。ただ、その音だけが響いていた。