第58節『問答』
第58節『問答』
月光に晒された通路に、二人の影が重なった。
互いの間合いは三歩。刃を抜けば、一息で決着がつく距離。
だが、抜かぬ。
遭遇の衝撃と緊張が解けぬまま、両者はただ、言葉を構えた。
「……お前は、誰だ」
新太の声は低く、重く、闇を裂く。その眼差しは、獲物を見定める獣そのもの。
源次は短刀を握ったまま、一瞬だけ沈黙した。呼吸を整え、鼓動を抑え込み、心を研ぎ澄ませる。
(……ここで動けば終わる。だが、ここで怯んでも終わる)
彼は、不敵な笑みを口元に浮かべた。そして、ゆっくりと手を頭巾にかける。
「何者かと問うならば……」
布が滑り落ち、夜風が顔を撫でた。月光に照らされ、顕になったのは――犬居城で刃を交えた、あの男の顔。
新太の瞳が見開かれる。
「……貴様……!」
「覚えているか」
源次の声は静かに響く。「先の合戦で、お前の兜に傷を刻んだ男だ」
新太の脳裏に、血煙と怒号の戦場が蘇る。兜の鉢に走った鋭い傷跡。刃の主は、この男だった。
「……あの時の……!」
震える声を抑え、彼は言葉を絞り出した。
源次は一歩も退かず、堂々と名乗りを上げる。
「井伊が家臣、源次と申す」
敵の砦、ただ一人。退路もなく、刃を交える寸前の場で、自ら正体を晒す。
それは間者のやり口ではない。武士の覚悟に他ならなかった。
新太の胸に、驚きと――否応なき興味が芽生える。
(なぜだ……。ただの忍びなら隠れ、逃げるはず。だが、この男は正面から己を曝け出した。――こいつは、何者だ?)
緊張の糸を切るように、新太が問いを投げつける。
「……なぜ、井伊の者が我が砦にいる」
源次は即座に返した。
「それはこちらの台詞だ。なぜ、武田が井伊の喉元に刃を突きつけている」
二人の声は、夜風に乗り、石垣に反響する。
「我らは、滅びゆく今川に代わり、この地を平定するため」
「平定とは聞こえがいい。だが、それはただの侵略だ」
新太の瞳が鋭く光る。源次もまた、一歩も退かぬ。
互いに主君の大義を掲げ、相手の正統を突き崩そうとする。
「お前の主は、戦乱を終わらせられるのか?」
「少なくとも、武田に従うよりは人は救われる」
(……こいつ、揺るがない)
源次は心の中で舌打ちする。表情は冷静を装っても、その眼は確信に満ちていた。(ただの若武者ではない。信じている。武田の大義を、己の命と引き換えにしても)
新太もまた、目の前の男を観察していた。
(この男……言葉に迷いがない。間者なら、もっと逃げ口上を探すはず。なのに――こいつは己の信じるものを語っている)
わずかに、空気が震えた。言葉では切り崩せぬ堅牢な意志を互いに感じ取りながら、なお刃を交えぬ。
建前の論は、平行線を描き続けた。
やがて、源次が深く息を吸い、言葉を変えた。
「……問答は無用だ。俺が聞きたいのは一つだけだ」
源次は一歩踏み出し、真っ直ぐに相手の眼を見据えた。その瞳は、まるで百年先からこの時代を見通すかのような、不思議な深みを帯びていた。
「武田信玄の子は、正史によれば義信、竜芳、そして勝頼のはず。だが、あんたの名はどの系図にもない。――なぜ、あなたがここにいる?」
新太の眼が激しく揺らいだ。それは初めてのことだった。
(……何を言っている。こいつはなぜ、武田家の内部事情を、まるで書物を読むかのように語るのだ?)
問いは、単に彼の存在を問うものではなかった。それは、歴史全体の流れの中に彼の居場所がないと断ずる、あり得ない視点からの言葉だった。
胸の奥を、冷たい刃で突かれたような感覚。誰からも問われたことのない言葉。誰にも触れられたくなかった核心。
「……貴様……一体、何を知っている」
声は怒りに震えていた。理性を装いながらも、その瞳は明らかに乱れている。
源次はその揺らぎを見逃さなかった。
(やはり……この男は、ただの敵将ではない。存在そのものが、この時代の謎に繋がっている)
新太の掌が、ゆっくりと刀の柄にかかる。
「もう十分だ……!」
その声には、もはや冷静な理はなかった。殺意と焦燥が混ざり合い、夜気を震わせる。
源次もまた、短刀を握り直す。
言葉の応酬は終わった。もはや刃で語るほかに道はない。
月光の下、二人の影が再び交わる。
――運命の一騎打ちが、始まろうとしていた。