第57節『遭遇』
第57節『遭遇』
館の障子の隙間から覗き込んでいた源次は、心臓を押し潰されるような重苦しさを抱えたまま、そっと後ずさった。
囲炉裏を囲む笑い声と炎の温もりが残像のように耳に、目に、胸にこびりつく。
(あれが……敵将の素顔か)
だが彼の任務は、感傷に浸って終えることではない。直虎に持ち帰るべきは、情ではなく情報だ。
源次は己に言い聞かせ、闇に溶けるように立ち上がると、館を後にした。
周囲の音が一層濃く耳に入ってくる。
草葉が擦れる小さな音、夜風に瓦がかすかに鳴る音。すべてが張り詰めた弦のように、彼の感覚を研ぎ澄ませていく。
彼は武器蔵へと忍び込んだ。
木の扉の掛け金を、懐の鉄針で探る。カチリ、と錠が外れる微かな音に心臓が跳ねた。扉をわずかに開け、鼻先に漂う鉄と油の匂いを嗅ぎ取る。
(数は……相当だな。五百は下らんか。手入れも行き届いている。いつでも戦える状態だ)
源次は息を殺し、次の目的地へ向かう。
兵糧庫。
扉を開けた瞬間、むわっとした米と干物の匂いが鼻を刺す。大きな俵が積まれているが、思ったほどの量ではない。
(……兵糧は少ない。長く籠城する気はない。短期決戦で決めるつもりか)
彼は暗がりの中、俵の高さを目測する。数にすれば二十俵か三十俵ほど。数百の兵が食うとすれば、一月も保たぬ。
(やはり……武田の狙いは奇襲か、あるいは一戦で勝負をつける策だ)
その分析を心の奥に刻み、今度は馬屋に足を運んだ。
夜目に慣れた眼で見ると、十数頭の馬が並んでいる。その中の一頭が、不意に鼻を鳴らし、こちらを向いた。
「……っ!」
源次は柱の影に身を潜める。馬の鋭敏な感覚は、闇の中の異分子を捉えていた。幸い、いななきはしなかった。
(兵糧に比して馬は多い……速攻を仕掛ける陣形。逃げる気はない。攻め切るつもりだ)
彼は頷き、静かにその場を離れる。
任務はほぼ終わった。必要な情報は得た。
あとは砦を抜け出し、報告に戻るだけ。
石垣に囲まれた細い通路。そこを抜ければ、外の林に出られる。
源次の胸に、わずかな安堵が芽生えた。
(……これで戻れる)
その時だった。
――死の足音。
「……ッ」
耳が捉えたのは、規則正しい、無駄のない足取り。武具が擦れる重い音はなく、しかし一歩一歩に研ぎ澄まされた重みがある。ただの兵の足ではない。武に長けた者の歩調。
(誰だ……? この時間に、一人で……?)
嫌な予感が背筋を氷のように這い上がる。源次はとっさに壁際の影に身を寄せた。だが、この通路は一本道。物陰は浅く、隠れ切ることはできない。
足音は、確実にこちらへと近づいてくる。
呼吸が浅くなる。胸の鼓動が自分にしか聞こえぬほどの轟音を立てる。
(まずい……引き返すこともできぬ。やり過ごすこともできぬ)
指先が自然と短刀の柄を探った。
(まさか……いや、そんなことは……)
だが、否定しようとした思考を、心の奥底からの直感が掻き消す。
(……新太か)
一武将が夜に一人で見回るなど、常ならぬこと。通常は部下に任せるはずだ。しかし、この足音の主には、どこかそうであって然るべき気配がある。
一歩。また一歩。近づく音に合わせ、源次の心臓は今にも胸を突き破らんばかりに跳ね上がる。
――そして。
角を曲がった。
雲間から差した月光が、通路を白く照らす。
現れたのは、上着だけを羽織り、片手に扇を持った男。酒の熱を冷ますためか、髪をほどき、軽装のまま夜気に身を晒している。
それは、間違いなく――新太だった。
「……ッ!」
新太もまた、角を曲がった瞬間に黒い影を捉えた。
至近。手を伸ばせば届く距離。頭巾で顔を隠し、短刀を構えた侵入者。
二人は同時に息を呑み、動きを止めた。
時間が凍りついたかのような静寂。夜の虫の声さえ遠ざかり、ただ互いの呼吸だけが響く。
源次の眼に映ったのは、驚愕する新太の表情。
新太の眼に映ったのは、闇に潜む敵の気配を纏った源次の姿。
月光は、二人を照らし出す残酷な舞台の照明となった。
(見つかった……)
源次の心が凍りつく。
(見つけた……)
新太の瞳が獣のように光る。
やがて、静寂を破ったのは新太だった。
低く、静かに。まるで獲物を確かめる狼の声のように。
「……お前は、誰だ」
その言葉は、刃より鋭く、闇より重く、二人を切り裂いた。
――運命の対話が、始まろうとしていた。